国鉄北越北線の未成区間跡 1

概要

国鉄北越北線の未成区間跡の地図 旧国道から見下ろしたコンクリート塊
国道253号 薬師トンネル旧道 薬師峠の派生記事となっています。そちらもあわせてご覧ください。)
激闘の旧国道から見下ろした謎のコンクリート塊・・・
一目見たときから、「あれは橋脚ではないか?」という疑いはあった。
では、なぜあんな、かつての国道とも、現在の国道とも違う場所にあるというのか。
それも、幾十年も過ぎたような貫禄ある姿で、屹立しているのか。
その答えを求めて、谷底の農道を進むことにした。

今回は探索メインというより、頭を使っての推理が多いです。
旧国道であれだけ体力使ったんだから、たまにはいいよね。

1-1 探し物は見つけにくいほどでもなかったり

国鉄北越北線の未成区間跡 1 まずは情報集め。
実際にあのコンクリートの塊に触れられれば、何らかの文字情報も期待できるものの、道もない山中にあるそれにはなかなか近づけない。
ひとまず、あれが橋脚ならば、もう一つ二つあってもいいはず。
他にもないか探してみよう。

あ、写真は関係ないです。
国鉄北越北線の未成区間跡 2 谷底からはさっきまで死闘を繰り広げていた旧道の路盤が鮮やかに見えていた。
結構な下り勾配だったようだ。

戦いの歴史を遡るように、谷底の道を峠方向に進んでいく。
橋脚の位置 旧道から見たコンクリートはこの辺にあった。
問題はそこに至るまでに、他にも同様の遺構が存在するのかどうか、である。

沢に沿って現役の水田が広がり、上り坂ではあるが整備された道はつらくない。
国鉄北越北線の未成区間跡 3
ぬ!!
国鉄北越北線の未成区間跡 4 あった!!

明らかに、それは旧道の路盤から見下ろしたコンクリート塊とは違うものだ。
GPSから判断される例の遺構はまだ先にある。
しかし、それよりも手前(松代町側)に全く同じ形状のものを見つけた。

これも橋脚と判断できる材料として、小さな谷をショートカットするように配置されていることだ。
橋脚2 旧道から見下ろしたコンクリートと、農道から先ほど見上げたコンクリートは、間に山肌を挟みこそすれ、結べるものだろう。
まるで、そこに何かを通そうとしたかのごとく。
国鉄北越北線の未成区間跡 5
くわっ!!!
国鉄北越北線の未成区間跡 6 またあった!!
といっても、これはどうやら旧道から見下ろしたコンクリート塊でありそうだ。
この頭上にある旧国道から現道までは1時間以上かかったが、現道から農道を通ってここまで来るのは10分程度だった。

「こんな近かったのかYO!」
と怒りとも失望ともつかない感情を覚えたのはほんの一瞬。
ここからほんの少しだけを歩を進めた瞬間に、驚愕の光景を見た・・・!
国鉄北越北線の未成区間跡 7
おおおおおおっ!!!!
国鉄北越北線の未成区間跡 8 対になっている!!!

上から見下ろしたと思われるコンクリート塊のすぐ隣に、同じようなものがもう一つあった!
旧道からでは、薮が邪魔で左側のコンクリートは見えなかったようだ。
しかも、よく見ると微妙に形状が異なる。
ひょっとして左側のコンクリートは、位置からして橋台か?
反対側にも何かあるかもしれないが、薮が濃すぎて何も見えないのが残念だ。

1-2 推理

橋台 さて、問題は「何の橋なのか?」ということに集約される。

まず、旧道とは高低差があるため、旧道の線形改良のためではありえない。
現道である薬師トンネルは2300メートルもあるため、あるいは途中で外へ出てこのあたりは橋を連続させて乗り越えるつもりであったのかとも考えた。
しかし・・・この橋脚はあまりにも細い(上から見下ろした写真を見て欲しい)。
これは車道というよりも・・・軌道(単線)の橋ではなかろうか・・・?
旧国道たる峠道も、現道の長大トンネルも、西は松代町、東は十日町市を結ぶものである。
そして、この二つの街は「北越急行ほくほく線」という鉄路によっても結ばれている。
ここで軌道の遺構を語るには、このほくほく線について語らねばなるまい。
国鉄北越北線の未成区間跡 9 「ほくほく線」というのは奇妙な名称ではあるが、これが正式名称であり、ある鉄道路線の略称からとられたものである。
その鉄道路線というのが、北越北線というものであった。
もともと北越北線は改正鉄道敷設法別表55-3、「新潟県直江津ヨリ松代附近ヲ経テ六日町ニ至ル鉄道及松代附近ヨリ分岐シテ湯沢ニ至ル鉄道」として計画された。
着工までには「南北戦争」という言葉が踊るほど南と北で誘致合戦があったのだが、ともかくも昭和48年8月には松代町付近の起工式が執り行われた。
ただ、思い出して欲しい。
そもそも冬期交通のネックであった薬師峠を避ける薬師トンネルの開通は昭和53年。北越北線が着工される頃には、 新国道である薬師トンネル工事も始まっていたことだろう。
さらに逆風となったのが昭和55年の国鉄再建法であり、これによりすでに着工していた北越北線の工事は凍結されてしまう

しかしながら、地元では第三セクター「北越急行株式会社」を設立し、昭和60年には工事を再開させた。
それどころか、平成元年には上越新幹線との連携のため、高規格化することに計画を変更したのである
私が何をいいたいのか、お分かりいただけるだろうか?
  • 「ある程度工事が進んだところで、凍結された」
  • 「その後、高規格に計画を変更した
つまり、低規格であった頃の路盤・構造物が遺された可能性があるのではないか?
言い換えれば、北越北線の未成区間ではなかろうか?

これを検証するため、古い時代の航空写真を見てみよう。
北越北線1
これは昭和51年の橋台があった辺りの航空写真である(国土画像情報より加工して転載)。
工事凍結が昭和55年なので、写真はその直前ということになる。
影の形からしても、ここに橋があったことは間違いない。
おもしろいことに、いやこれは多少予想していたが、どうもこの橋の先でトンネル工事をしているらしい。

おそらくこの橋こそが、かつて北越北線として建設された橋の姿だ。
現在のほくほく線は十日町まで長大トンネルでぶち抜いているが、国鉄北越北線として計画された路線がこんな高規格であるとは思えない。
国鉄北越北線は、山腹を縫って走るように設計・施工されていたに違いあるまい。

そうして出来上がった構造物の一部が、工事凍結と高規格化への計画変更により、山中に取り残されてしまった・・・というのが私の見解だ。
果たしてこれが事実なのかどうか、決定的な証拠は何もない。
何か情報をお持ちの方は、ぜひお知らせ願いたい。
掲示板にてご指摘頂いたところによると、橋は斜坑のための工事用道路という可能性も考えられます。
むしろその方が可能性が高いかも?
北越北線2 なお、このあたりの線形が高規格化によって変えられている事は事実である。
これも昭和51年の航空写真で、薬師トンネル出口付近のものだ(この写真から31年後、私は旧国道から薬師トンネルへと合流したわけだ)。
当時工事中の北越北線のトンネル坑口がはっきり分かるが、現在のほくほく線のトンネルは図の○印の位置に変更されている。
標高の低い位置に坑口を変更することで、長大トンネル化とスピードアップを図ったものと思われる。
果たして、この推理に結論を得られる日がくるのだろうか?
国鉄北越北線の路線計画図でもあれば、きっとこの推論の是非も明らかになるだろうが、分からないままでいることも、浪漫の一つかもしれない。
[ 07' 11/17 訪問 ] [ 08' 6/11 作成 ]
これより前の記事はありませんこれより先の記事はありません
ひろみず http://d-road.sytes.net/ webmaster@d-road.sytes.net
国鉄北越北線の未成区間跡1