新潟県道393号 礼拝長岡線 沖見峠トンネル旧道 0

概要

新潟県道393号 礼拝長岡線 沖見峠トンネル旧道の地図 新潟県道393号 礼拝長岡線は日本海に面した旧西山町礼拝(らいはい)と城下町長岡を結ぶ路線である。
県道の起点近くに存在する、沖見峠あるいは妙法寺峠といわれる峠が今回の舞台だ。
現道は平成12年に竣工した沖見峠トンネルで峠下をぶち抜いているが、かつてはこの峠をもって、 旧西山町妙法寺集落と刈羽村飛地である油田(あぶらでん)集落を結んでいた。
しかし、手持ちの7年前の新潟県地図では峠付近は未整備となっており、地図によっては未通とされているものもあるほどで、 車両の往来はほとんどないかあるいはできないような悪路であったことが想像される。

新潟県道393号といえば、新潟県に591までナンバリングされた県道のうちでも後半の部類に入り、いうまでもなく一般県道である。
長岡に繋がるとはいっても現地からは遠く、周辺にどのような歴史があるのか、当初はいまいちつかめないでいた。
そのため、どうしても生活道路としてのジミ〜な印象は拭えなかったのだが、調べてみるとその印象は一変する。


中永隧道の項でもお伝えしたとおり、古来越後の主要街道のひとつとして、日本海岸の北陸街道、そして内陸の三国街道があった。
中永隧道擁する国道352号はその二つの街道をつなぐ道がその前身であるとお伝えしたが、どうもこの県道も同じような歴史を持っていたらしい。
それどころか、その役割は先の国道とは比べ物にならない、立派に"街道"の名を冠したものであった。

その役割とは、北陸街道の宿駅また海運の町として発展していた日本海は柏崎と、三国街道は城下町長岡を結ぶというもので、 名を"長岡街道"といった。
現在でも柏崎と長岡はともに中越地方の中心として一大都市を形成しており、両者を結ぶ道は天下の一桁国道、8号線である。
すなわち、当時の長岡街道、現在の県道393号線は、役割的には現在の国道8号と同様の責務を担う重要な街道であったといえるのだ。
明治9年頃までは当時としては稀であっただろう県道としての指定を受けていたことからも、この道の重要性が如何ほどであったか、想像するに難くない。

そんな道が、なぜ車両往来もままならないような貧弱県道に落ちぶれたのか?
そのきっかけは、明治11年の明治天皇北陸巡幸にある。

巡幸に当たり、明治天皇は長岡から柏崎に向かうことになっていた。
当然、その際のコースは重要街道である長岡街道を通過すると思われたため、妙法寺を中心とする沿線住民は古来の徒歩道であった長岡街道の改修を行い、 車馬も通れるような道を開削した。
その道が現在の地図で見られる峠越えの道にほぼ等しい。
ところが、現地より南方にある「赤田町方」という集落では、集落が一丸となってわずか数ヶ月で"曽地峠"という新道を切り開いた。
これが明治天皇の巡幸路を得るためだったのか、巡幸路に決まったから開削したのかははっきりしないが、とにかくこの巡幸にあわせて開削されたのだった。
当時の巡幸日誌では、
「始め宮元駅より右折し妙法寺峠を踰え柏崎に達する従来の官道※1を以て、輦路に定めらるゝと雖も、 格好該路※2開さく功を竣し且つ彼に比せば稍平易なるを以て更に此の通につく」(赤田町方郷土史より)
※1:長岡街道のこと ※2:曽地峠新道のこと
とされ、かつての長岡街道やそれに沿って開削された車道ではなく、南方の新道を通っていってしまった。

当時の村民の落胆振りや如何ばかりかと想像されるが、これを機に県道の指定も曽地峠新道に移り、旧長岡街道は村道に格下げされてしまった。
その後、曽地峠新道は例の一桁国道8号線としての指定を受けるにまで栄華を極めたが、他方長岡街道の凋落振りは先に述べたとおりである。
妙法寺峠を含む区間が再び県道の指定を受けるのは、昭和46年に県道礼拝長岡線となるまで待たなければならなかった。
県道指定から改良工事の着工までに3年を要し、実際に峠に自動車を通しえたのは昭和50年頃と思われる。
それでも、一般の地図からは無視されるような存在でしかなかったのは、最期まで恵まれなかった峠であるといわざるを得ない。


かつては多くの旅人が行きかったであろう長岡街道。
徒歩道としてのそれは流石に私の範疇を越えるものであるが、ひょっとしたら明治天皇一行の巡幸路となり、ひいては国道8号ともなったかもしれない、 悲運の道を訪ねた。

0-1 JR越後線 刈羽駅

新潟県道393号 礼拝長岡線 沖見峠トンネル旧道 1 平成17年の秋、新潟の天気は散々たるものだった。
平日は秋晴れが続くというのに、動ける土日になると必ず雨天という日々が二ヶ月も続いたのである。
雨を苦手とする私はなかなか走る気になれず、鬱憤がたまっていくばかり。
もう秋も終わり、冬になりかけた11月最後の土曜日、ようやく久しぶりの秋晴れに恵まれ、外へ出たのである。
といっても、アプローチは近くの駅の始発電車を利用したため、まだ空は一面漆黒に沈んでいた。

目指したのはJR越後線の刈羽駅。
JR越後線は新潟と柏崎を結ぶ地方交通路線で、両起終点付近は都市近郊路線としていつも込み合っている。
一方でその中間区間は新潟県下でも有数の閑散区間であり、日中は数時間も列車が来ない有様である。
朝晩は両端の都市へと向かう通学客を主としてそれなりに客はいるようだが、土曜日の始発ともなれば車内の客もまばら。
誰もいないホームにも、律儀に列車は停車していく。誰が乗るでもなく、誰が降りるでもなく。
新潟県道393号 礼拝長岡線 沖見峠トンネル旧道 2 ようやく空が漆黒から群青色へと変わる頃、目的地刈羽駅に到着。
降りたのは相棒を抱えた私ひとり。

今日は秋晴れといっても、午前は曇りまたは雨の予報。実際にぱらぱらと小雨は落ちてきているが、体を濡らすほどではない。
人気のない待合室を過ぎ、相棒の組み立てにかかる。
新潟県道393号 礼拝長岡線 沖見峠トンネル旧道 3 ちゃっちゃと済ませているうちに空も明るくなってきた。
たとえ空が晴れていても、泥除けのない私の自転車では地面の水を跳ね上げて顔面も背中も泥だらけになるのは避けられず、 願わくば地面も乾いて欲しいものだ。

出発前に刈羽駅前にて記念撮影。
刈羽というと新潟県で唯一の原子力発電所を抱える村で、そういう村とあれば駅舎もさぞ立派なことだろうと思いきや、意外と普通だった。
でも、トイレに紙があったのはさすが電源立地地域(んなこたーない)。

午前7時ちょうど、出発。
新潟県道393号 礼拝長岡線 沖見峠トンネル旧道 4 どう見てもオーバースペックな国道116号のバイパスを渡り、ひとまずアプローチとして主要地方道73号 宮川鯨波線を東進する。

もう太陽は地平線を越えたはずだが、雲に覆われたか山に隠れたか、その姿は見えない。小雨程度の雨も風に乗って落ちてくる。
それでも、約二ヶ月ぶりの遠出とあって足取りは軽い。想像していたほど寒くもないのもまたうれしかった。
田んぼを突っ切る人気のない道を、今までの鬱屈を振り払うかのごとく突っ走る。
目指す峠は正面の山付近にあるはずだ。
新潟県道393号 礼拝長岡線 沖見峠トンネル旧道 5 ちょっとトリッキーな十字路をまっすぐ入れば、そこは目指す県道393号 礼拝長岡線。ここまで、刈羽駅からおよそ2.5km。

峠を挟んだあたりはまともな道ではなかったようだが、流石に妙法寺の集落までは十分な二車線が延びている。
平成12年に沖見峠トンネルが開通し、立派な道になってさえしまえば、曲がりなりにも元々は柏崎と長岡を結んでいた道のこと、 トラックなどの大型車もぼちぼち通る。

昭和46年に県道礼拝長岡線となる以前、刈羽駅から妙法寺集落までのこのあたりの道は、町村道の妙法寺刈羽停車場線といった。
「妙法寺刈羽停車場線」という名称からして、妙法寺から先の峠付近はまともな道ではなかったことがうかがえる。
明治の道は、当時すでに忘れられたものだったのか・・・

0-2 妙法寺集落での出会い

新潟県道393号 礼拝長岡線 沖見峠トンネル旧道 6 そのまま道なりに進めば、すぐに妙法寺の集落へと到達する。
そして集落に入ってすぐ、最初の現道と旧道の分岐がある。
直進が現道、左が集落道となった旧道である。

私はあまり現役の旧道というのは興味がないのだが、まあ久しぶりの旧道探索ということもあり、ここを左折し、旧道に入ることにした。
新潟県道393号 礼拝長岡線 沖見峠トンネル旧道 7 その決定を祝福したのかどうか、この日初めてのお天道様が小雨に濡れた私を照らしてくれた。
濡れた路面にきらきらと輝き、目が痛くなるほどにまぶしい。

北海道出身の私が言うのもなんだが、新潟の冬というのはひどいもので、12〜2月までまず太陽が出てこない。本当に。
お天道様の光を見ただけで、寒かろうがまだ雪が残っていようが「ああ春が来たなあ」と実感できるほどだ。
11月の終わりに見たこのお天道様、次に拝めるのはいつのことだろうか。
新潟県道393号 礼拝長岡線 沖見峠トンネル旧道 8 集落内に入った途端に道は強烈に狭まる。それまでの幅員の半分ほどだ。
さらに、今までの整備された区間に比べてアップダウンも激しくなる。

妙法寺の集落はかつて、長岡街道の宿場町として栄えていた。
長岡と柏崎の間にある唯一の峠で、また近くに清流もあったことから、旅人はここで喉を潤し、旅の疲れを癒した。
江戸時代が終わり、大名の行き来がなくなるなど、交通の変化により一時劣勢に回るが、明治になって再び脚光を浴びることになる。
すでに明治の初めに街道としての地位は曽地峠に奪われていたが、それとは別にこの地を照らしたもの───それが、石油だ。

概要のところで、「妙法寺峠は妙法寺集落と油田(あぶらでん)集落を結ぶ峠」とご紹介した。
多くの方はこの時点で気が付かれたと思うが、峠の向こう側、油田の集落も、その地名がズバリ示すように、古来より石油が自噴する地であった。
妙法寺でも明治の頃から本格的に採油が始まり、当時はやぐらが林立する一大油田として大いに賑わい、多くの富をこの地にもたらしたという。

明治の終わり頃には徐々に採掘現場を北に移され、妙法寺は静かな山村としての姿になっていったが、 当時に築かれた財力は相当なものであったようで、その後もこんな山中の村に金融業が入ったこともあったそうだ。
また、日本で最初に製油法を開発した人はここ妙法寺の出身だそうで、明治初期に本格的な採掘が始まった点も合わせて、 日本の石油業の発祥の地であるといっても過言ではなかろう。

ちなみに、妙法寺集落を抱える旧西山町はあの田中角栄の出身地であるとともに、 日本石油(現在は三菱石油と合併して新日本石油)の創業者、内藤久寛の出身地でもある。
もちろん、内藤はこの周辺地域の石油事業にも噛んでいる・・・というか、彼がこの地域の石油開発を推し進めたわけだ。
新潟県道393号 礼拝長岡線 沖見峠トンネル旧道 9 私は社会科の先生ではないので、あまり石油業についてぺらぺら喋っているわけにもいかない。道に目を戻そう。

明治の富で築いたのか、木造の古風で重厚な家並みの間を縫うように旧道は延びている。
その途中、小さな交差点にてふと左に目を向けてみると・・・

なんかあるよ・・・

0-3 南慶寺隧道

新潟県道393号 礼拝長岡線 沖見峠トンネル旧道 10 実はここへ来る前、地図にて小さな隧道があることは気付いており(ページ上部の地図参照)、現地訪問の際にはここも見てみようと思っていた。
しかし、午前4時前に起きたせいなのか、当日の朝まで降り続いた雨に洗い流されたのか、きれいさっぱり忘れており、 交差点で左右を確認してそれを発見、初めてこのことを思い出したのだった。
隧道が目に入っていなければ、何の疑問もなく峠を越えていただろう・・・反省。

コンクリートでガチガチに固められた隧道は内部に電灯がともり、現役のものであることは間違いない。
とはいっても、遠目にはまるで廃隧道にも見える狭く古びた隧道である。
近づいてみれば中からザーザーと水が落ちる音が聞こえ、なおさら廃隧道独特の"匂い"を発している。
ピチャピチャと雫が落ちるような音ではなく、滝のような音だ。
大丈夫なのか?この隧道・・・
場所が場所なら、心霊スポットに挙げられたかもしれない。もっとも、私が知らないだけかもしれないが・・・

もちろん、アナを見たからには入らねば気がすまない。ちょっと寄り道をしよう。
新潟県道393号 礼拝長岡線 沖見峠トンネル旧道 11 進入の前にポータルを観察。

頭上には扁額があり、「南慶寺隧道」と彫られていた。
文字は左書きで、古くても昭和30年以降のものだろう。
扁額の右側にはなにやら文字が刻まれていたが、残念ながら遠目にはよく見えない。
どうもこの隧道の開削に貢献した村長の名前を刻んでいるようだが、写真で判別するには至らなかった。
銘板の類はなく、正確な由来は現地では不明であった。

まあ、反対側の坑口も見てみないとな。
新潟県道393号 礼拝長岡線 沖見峠トンネル旧道 12 隧道内部にはいくつもの濡れたタイヤの跡がついている。
というか、こんな廃隧道みたいな風体をしているくせに、交通量が意外と多い。1台/分か、それ以上だ。
土曜の朝でこれだから、平日はもっと多いだろう。

コンクリートの路面は前夜まで降り続いた雨で濡れた路面から運ばれた水と、隧道内の漏水で、全体的に湿っている。
こういうのは滑りやすく、歩道も何もない隧道では前から後ろからやってくる軽トラに吹っ飛ばされる可能性もあり、恐ろしい。
場所によっては打たせ水のようにドバドバ水が吹き出ているところもあり、車が来る前後左右どころか上も下も注意しながら進む必要がある。
とても落ち着いて写真をとってる場合ではなく、暗い内部で撮った写真はことごとくピンボケした・・・

たった三つだけ設置された明かりもはっきりいって何の役にも立ってない。
不安な自転車のライトを頼りに、時折脇を通過する軽トラをやり過ごすのはなかなか緊張する。
新潟県道393号 礼拝長岡線 沖見峠トンネル旧道 122 上の写真の明るさとコントラストを上げた写真。現地での視覚的にはもちろん上の写真のほうが近い。
隧道全体からひどく漏水しており、天井の明かりがなかったら「廃隧道です」といっても信じてもらえそうだ。
この道は県道でも、まして国道でもなく、大規模に改修するだけの予算がつかないのだろうか?
新潟県道393号 礼拝長岡線 沖見峠トンネル旧道 13 さほど長いトンネルではなかったが、片道だけで後方から1台、前方から1台の車が脇を掠めていった。やれやれ。

反対側の坑口も先ほどと全く同じ構造で、期待した銘板は存在せず、相変わらず竣工年は不明。
こちら側のトンネル入口の路面には、イナズマのような妙ちくりんなペイントが施されている。
もちろんこれは二車線幅あるかないかくらいの狭い隧道に対する注意を促すものであって、間違ってもダッシュゾーンではない。
隧道前までは騙し騙しで二車線を確保しておいて、いざ隧道に突入すると急激に狭まるというのは相当に危険だ。
新潟県道393号 礼拝長岡線 沖見峠トンネル旧道 14 例によって扁額には隧道名と誰かの名前のようなものが刻まれているが、判別はできない。


帰宅後の調査によると、この隧道が存在する道は町道南慶寺線といい、目の前の隧道は旧西山町にある唯一の町道隧道である。
明治の石油景気も過ぎ、大正の初めには越後鉄道(現在のJR越後線)が開通するも、それは妙法寺から数キロも離れた地を通っていたため、 妙法寺はかつての長岡街道の要衝どころかどの交通機関からも取り残された不便な地になっていた。
これを打破するため、越後線への最短路として昭和2年に村道南慶寺線が開削されたが、当時は切り通しの峠越えだったらしい。 切り通しは昭和7年にも更に改修を受けた。
時代は下って昭和28年、戦後の失業者対策の一環として、また急坂を避けるために、この地に隧道が掘られた。
妙法寺集落の歴史書、「宿場町妙法寺の文化」には
「諸車が楽に通れる新道を完成した」
とあるが、当時は長さ100m、幅1.4m(!)、高さ1.8m(!!)で木造(!!!)であったというから驚異である。
もっとも、当時の「諸車」というのは自動車というよりももっぱら自転車やリヤカーが対象だったから、このスペックでも十分だったのかもしれないが・・・
しかしながら、数年のうちに木枠が腐り、土砂も崩壊し始めて、「交通注意」などと立て札が掲げられる有様だったという。

このような危険な状態がしばらく続いたが、それでも往来は多かったらしい。
その後、昭和35年頃から周辺の石油資源の開発上、この町道が産業開発の重要道路に指定されたことから、町道全体の整備が行われることになった。
そのひとつとして、わずか数年で崩落寸前になった南慶寺隧道も整備されることとなり、昭和37年から改良工事が行われ、 昭和39年にコンクリート巻き立てトンネルとして完工、それが今日の姿である。
そのスペックは長さ88m、幅4.5m、高さ4.5mで、それまでの隧道のおよそ3倍の規模に生まれ変わったその姿は、当時の地元民の目に輝かしく映ったことだろう。

廃道マニアとしては木造隧道を放棄して新トンネルを掘ってくれていたらと願ってしまうのだが、残念ながらそう思い通りにもいかなかったようだ。
当時の隧道に設置された木枠の腐朽がひどく、修理でどうにかなるものではなかったため、 これを導抗として自動車の通れるトンネルに改良する形になってしまったのだった。残念。
隧道が整備されたことで、国道116号やJR越後線、柏崎や長岡への生命線として大いに活躍することになる。

昭和46年の県道礼拝長岡線の指定や平成12年の沖見峠トンネルの開通で交通の流れも多少変わったようであるが、それでも重要路線であることにかわりない。
交通量が多いのはこういった理由からだった。
隧道の整備は昭和2年の村道開削以来の悲願であり、扁額にその尽力者が刻まれたことからも、その熱意が伝わってくる。
再び南慶寺隧道にもぐると、またも一台の車とすれ違った。
このあたりも過疎が進んでいそうなところだが、集落道として高齢の歩行者も多いだろうに、これはちょっと危ないのではないかね?

そのまま妙法寺の集落へと戻り、旧道の続きを進む。
[ 05' 11/26 訪問 ] [ 05' 12/30 作成 ]
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