国道289号 点線国道八十里越 [前編] 2

概要

国道289号 点線国道八十里越 [前編]の地図
とうとう河井らが通った八十里越に到達。
合流地点は地図上の国道のルートと多少異なった道になっており、ちょっと不安になるが、道なりに進んでいけば合流できる。

2-1 空堀

国道289号 点線国道八十里越 [前編] 40 吉ヶ平から登ってきた旧街道・八十里越。
紛れもない旧街道であるが、道の程度は今まで登ってきた由来不明の点線国道と変わらない。
今までの道がひどかっただけに、「街道と合流すれば、道の状態は良くなるんじゃないか?」などという甘い期待は脆くも打ち砕かれた。
国道289号 点線国道八十里越 [前編] 41 前回も触れたが、その旧街道八十里越と大谷から登ってきた点線国道が合流するこの場所が、「空堀」と呼ばれる場所である。
伝説において以仁王が会津方面から吉ヶ平へと落ち延びた際、このあたりに居住したといわれる。そのため、周辺は「御所平」とも呼ばれる。
御所平の近くには水をたたえることのない涸れ沢があり、それが御所平の堀の跡といわれることから、この名がついた。

なお、空掘にはかつて小屋があったという。
小屋は二階建てで、軽食や茶を出したというが、八十里越自体の利用価値が薄らいでいった大正末期に閉鎖されてしまった。
国道289号 点線国道八十里越 [前編] 42 街道と点線国道はひとつとなり、鞍掛峠を目指す。写真はその峠の方向だ。
点線国道289号と旧街道八十里越は空堀まで別ルートを通っていたように、必ずしも一致しないが、ここから鞍掛峠を経て次の峠である「木ノ根峠」までは、 江戸時代の道とほぼ一致している。
すなわち、今私が見ている光景を、長岡城を追われた長岡藩士たちや河井継之助らも見ていたはずだ。
国道289号 点線国道八十里越 [前編] 43 ここで戊辰戦争と長岡藩、河井継之助について概説しておこう。少々長いので、興味のない方は読み飛ばしていただいてかまわない。


越後長岡藩はそれほど大きな藩ではなかったが、譜代大名として長く徳川政権に関わってきた。
薩長が朝廷の権威を利用して江戸幕府を追い詰めていった際にも、徳川家の名誉を守るべく活動した。
その中心にあったのが、当時藩政改革などで辣腕を振るっていた河井である。
しかし、先見の明があった河井はすでに武家社会を中心とする封建制度が時代にそぐわないことを見抜いており、藩自体も新時代にふさわしいものへと変革させようとしていた。
その一方で、官軍と旧幕軍との間に武力衝突が起こることを早くから見抜き、当時日本に3つしかなかったガトリング砲のうち2つを購入、さらにフランス式の最新型銃などで軍備を整えていった。
ただ、これはたとえば旧幕軍に組して新政府に対抗しようとしたものではなく、河井の中ではあくまでも長岡藩は中立であり、 またその中立を保つためには武力も必要であるとの考えによるものである。
実際、旧幕軍の筆頭である会津藩からの「奥羽越列藩同盟」の誘いも蹴っている。

やがて戊辰戦争が始まると、官軍は長岡藩の南、小千谷に陣を敷き、長岡藩に対し恭順を迫った。
1868年5月2日(旧暦)、長岡藩軍事総督の河井は新政府軍軍監岩村精一郎と会談し、藩の武装中立という立場を説明するも岩村はこれを一蹴(小千谷談判)。
やむを得ず藩は奥羽越列藩同盟に加わり、ここに「北越戦争」と呼ばれる凄惨な戦いが始まった。

北越戦争では当初、小藩ながら近代武装が徹底された長岡藩に官軍は敗戦に次ぐ敗戦で、官軍は大きなダメージを被る。
しかし、物量に勝る官軍によってやがて長岡城は落城した。
ここまでであったら、まだ河井の名が世に出ることもなかったかもしれない。
長岡城落城後、河井は奇策を講じ、一度落とされた城を再び奪い返したのだ。
しかしながらこの戦いで河井は負傷、さらに奪還した城も体勢を立て直した官軍に再び占拠され、 河井と藩士一同は折からの豪雨、そして夜の闇の中を、会津方面へと落ち延びた。
このとき通った道が、八十里越なのである。

2-2 桜の窟

国道289号 点線国道八十里越 [前編] 44 合流地点で一瞬道が良くなったように見えたが、それは日陰になっていたからに過ぎなかった。
ちょっと進むと、下手をすれば合流前よりも怪しい道になる。

八十里越が街道として現役だった頃(特に明治の改修を終えた頃)は、三条で市が立つ日などはまるで大通りのような賑わいであったと記録されている。
もはやそんな往来は夢のまた夢。
静かな山中に人の気配はどこにもない。
国道289号 点線国道八十里越 [前編] 45 それでも、当時の名残はそこかしこに見られる。
道を塞ぐ大岩を真っ二つに割ったこの掘割は深さ3メートル、幅5メートルはあるだろう。

曲がりなりにも国道とはいえ、街道という歴史を持たなかった合流以前の道は、勾配を犠牲にしてでも一直線に登る道が多かったが、合流後の旧街道はそれが逆転する。
距離を犠牲にしても、九十九折や屈曲で勾配を抑えつつ、幅員を確保して牛馬が通れるような道である。
徒歩道から牛馬道への改築は天保14年(西暦1843年)のことであった。
このあたりの道は江戸時代のそれとほぼ一致しており、この掘割も当時のものかもしれない。
国道289号 点線国道八十里越 [前編] 46 さらに先には「桜の窟」という遺構がある。
これも以仁王の伝説に関連したもので、ここに身を隠したともご在所としたともいわれている。

"窟"というからには洞窟のようなものをイメージするのだが、それらしいものは見当たらない。
埋まってしまったか、あったとしてもちょっとした窪みのようなものであったのだろう。
国道289号 点線国道八十里越 [前編] 47 空堀から桜の窟までは林間の道で日当たりが悪い。
そのために旧状を良くとどめた比較的進みやすい道であったが、開けたところは道の痕跡すら怪しくなってくる。
登山道としては有名どころだと思っていたのだが、朝から誰とも会うことなく、またこの道の様相ではそう人通りも多くないようにも見える。
なまじ歴史深い史道だけに、孤独が余計に痛感される。

───長岡藩士たちの幻影でも、見えぬものか。

2-3 殿様清水

国道289号 点線国道八十里越 [前編] 48 空堀から40分、「殿様清水」という小広場に到達。
清水の名の通り、近くには清浄な湧き水が噴き出している。
そろそろ太陽も高く昇りはじめ、熱気の中を歩いていた私にとって、キンキンに冷えた湧き水はさながらダンジョンに見つけた回復ポイントのようにありがたいものだった。

「殿様」の名からして、長岡藩主牧野忠訓も八十里越で敗走する際には、この清水で喉を潤したのかもしれない。
もっとも、追撃する官軍も迫ってきていたというから、そんな余裕があったのかどうか・・・

河井の死因は破傷風といわれ、高熱を発していた。
その手当てにも、きっとここの水が使われたに違いない。
国道289号 点線国道八十里越 [前編] 49 道は殿様清水を頂点にして180度折り返し、九十九折で高度を稼いでいる。
しかし路盤の状況はともすれば見失いそうなほどに悪化していく。
・・・本当に峠を越えるのか、この道は。
国道289号 点線国道八十里越 [前編] 50 確実に稜線は近づいてきてはいる。林間にも光が差し込み、もう峠なのではと錯覚させたほどだ。
果てしがないと思われた自転車での点線国道探訪も、どうやら鞍掛峠という一山は越えられそうだ。
実際に一度引き返しかけただけに、それを乗り越えて到達できるであろう峠の味はまた格別なものになりそうだ。
国道289号 点線国道八十里越 [前編] 51
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2-4 敗走

峠手前わずか700メートル地点にて、今までにない大崩落。
峠より先は下っていくことから、もう登りは最後だと死力を振り絞って自転車を抱えてここまで来た私を奈落の底に叩き落した。
ここは峠を挟んで存在する車道(旧塩野淵林道と、峠の向こうにある林道)のほぼ中間地点であり、いわば登山道の最奥部である。
進むも地獄、戻るも地獄。
国道289号 点線国道八十里越 [前編] 52 よく見るとその崩落は土砂ではなく、"雪崩"だ。
県内でも最も積雪の多い地域だけに、7月になろうかというこの時期にもまだ大量に残っていた。
うっかり足元を滑らせれば、そのまま谷底までNon-Stopだ。
国道289号 点線国道八十里越 [前編] 53 道がない・・・

崩落は大規模で、ここから数百メートルに亘って路盤を覆い尽くしている。
今までへろへろと続いていた登山道は完全に掻き消え、なんらの痕跡もなくなってしまった。
というか、今までへろへろだったのは、どうやらこの崩落に起因するらしく、これによって寸断された八十里越はただでさえ少なかった往来を確実に減らしている。

自転車を担いだ肩が、再びどうしようもない痛みを発し始めた。
国道289号 点線国道八十里越 [前編] 54 それでもここまでやってきた苦労を惜しみ、何とか道を探して30分も周辺を探索するも、途切れた道を発見することは・・・叶わなかった。


決断のとき、である。
もはや峠はすぐそこにあり、目視でも確認できる。
そこへ向かって進めば、おそらく道がなくとも何とか到達できるだろう。GPSという強力な装備もあり、迷うことはない。
しかし───
問題はこのでかい自転車だ。
こんなもの担いでは、道のない斜面を登っていくことはできないし、体力的にそれができるほどの余裕はもうない。
よしんば登りえたとしても、その先の道の状態がわからなければ、やはり引き返さなければならないことになるかもしれない。
自転車を放置すれば、向こうの道が良かろうが悪かろうが、結局は引き返すことになる。

前進は───あまりにも不確定要素が多すぎる。

これがたどり着いた結論。
私がとった行動は、「敗走」だ。
この場所で同じ行動をしていた長岡藩士と決定的に違うのは、彼らは家を失って落ち延びて行った一方、私は安全を求めて家に帰ることを選択した。
河井の「こしぬけ」の声が聞こえそうだが、今の私に強攻策は決して賢い行動ではないはず。

使い果たした体力を回復するために、ここで簡単な食事と休憩を取った後、今まで越えてきた試練をまた越えるべく、相棒とともに峠に背を向けた。
その背中だけは、藩士達と同じ姿であったかもしれない。
事実上の登山道と化してから4時間もの山登り、無駄とは言わない。
だがその結末は峠を文字通り目の前にして、無念の撤退。
負けたままで終われば、本当に「こしぬけ」だ。
ひとつの旅の終わりはリベンジの旅の始まり。

「国道289号 点線国道八十里越」
"中編"に続く。
[ 06' 11/19、07' 6/24 訪問 ] [ 07' 8/8 作成 ]
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