国道289号 点線国道八十里越 [中編] 2

概要

国道289号 点線国道八十里越 [中編]の地図
林道から木ノ根峠まではほんの1kmに過ぎないのだが、そのわずかな区間で結局自転車は放棄とあいなった。
明治の改修が終わると、荷車はおろか時に自転車も通ったという八十里越も、いまや江戸時代の街道のごとく、徒歩による往来が限界である。

2-1 昔日の石組み

国道289号 点線国道八十里越 [中編] 30 崩落地点から谷底を望む。
深く抉り取られてはいるが、高さはあまりない。

比較的新しいように見え、ひょっとしたらやまびこトンネルに至るまでの間にあった崩落(平成16年7月新潟・福島豪雨)と同時期のものかもしれない。
国道289号 点線国道八十里越 [中編] 31 崩落地点を過ぎても、踏み分け道は変わらずへろへろ延びる。
もっとも、崩落前からそんな調子であって、これ以上ひどくなりようがない。


道中、小さな沢を渡る箇所は数え切れないほどある。
どこも一跨ぎできるか、そうでなくとも浅くて流れもほとんどないところばかりなので、渡る分には問題がなく、ここもそんな数ある小沢のひとつに過ぎない。

・・・が。

この沢の前後で、貧相な踏み分け道は"Ω字"を描くように沢のやや上流へと迂回している。
明らかに、本来の路盤から外れた線形だ。
本来の線形からすると、沢を小橋や暗渠で直線的に越えていたと思われるのだが・・・?

おそらく道があったであろう沢の下流に目を向けてみた。
国道289号 点線国道八十里越 [中編] 32 「あれは・・・っ!!」
国道289号 点線国道八十里越 [中編] 33
ひ゛ゃあ゛あ゛あ゛あ゛
国道289号 点線国道八十里越 [中編] 34 Isshy Gucky!!!!

苔むした丸い石が乱雑に積まれるその姿は、紛れもない、石垣だ!!
沢の両岸に聳え立つそれは、幅3メートル近く、高さは1.5メートルほどだろうか。
役割としてはおそらく橋台といえるものに違いない。

石垣の上は完全に自然に還っており、何千何万もの人間を通したその面影は全くない。前後の道も藪と崩落に埋まっている。
それでも、かつては主要な街道として、明治には県道でもあったこの道の生き証人を見つけた。
途端に、深く静かな山中のこの場所に、人々の雑踏が聞こえるような気がした。
それは決して幻ではなく、目の前のこの石垣は少なくとも百年程前には、その音を、この場所で、間違いなく聞いていたのである。
国道289号 点線国道八十里越 [中編] 35 そしてもうひとつの興味は、「この石垣は河井継之助を通したのか?」である。
八十里越の大部分は明治時代に改修を受け、ところによってはルート自体が変更されたところもある。
一方、このあたりのルートはほぼ江戸時代の路盤を踏襲している。
その路盤とは天保14年(西暦1843年)の大改修のときのものであり、石組みなど、この時の工事の痕跡は各所に残っているといわれる。
もしも、これが天保時代のものであるならば───
この石垣の上を、戸板に乗せられた河井継之助が通ったことになる。
国道289号 点線国道八十里越 [中編] 36 石垣を過ぎると、周囲は樹林地帯となり、日差しの遮られた路盤は再び往時を思わせるような古道の風格を漂い始めた。
江戸時代の道幅はおよそ5メートルほどであったと記録されており、現在のこのあたりの路盤も大体それくらいだ。
ということはこの近辺は江戸時代からさほど手を加えられていないのかもしれない。
となれば、先ほどの石垣も江戸時代のものが残っていた可能性もあるだろう。

2-2 木ノ根峠到達

国道289号 点線国道八十里越 [中編] 37 林道からおよそ1時間ほどで、ついにそれを捉えた。
県境の木ノ根峠だ。
国道289号 点線国道八十里越 [中編] 38 まさかお隣の県に、徒歩で、それも車両通行不可の点線国道で伺うことになろうとは、初めて新潟を訪れたときには全く考えもしなかったことだ。
やがて自転車に興味を持ち、その瞬間から点線国道での県境越えを目指し、自転車と共にとはいかなかったものの、こうやってこの場所に立つことができた。
感無量だ。
国道289号 点線国道八十里越 [中編] 39 上の写真で写っている石碑には「木ノ根茶屋跡」とある。
木ノ根茶屋は天保の大改修の際に設置され、昭和初期まで続いた山小屋である。
峠は昔も今も越後と会津を結ぶ道であることには変わりなく、北越戦争当時には今の姿とはまた異なる、重要な街道としての地位を持っていたため、 峠にあった小屋ですらも、戦乱の渦に巻き込まれることになった。

慶応四年五月十九日、長岡城は新政府の手によって落城。
河井はなおも長岡に残って再起を図るが、藩主牧野忠訓と家族一行は数少ない供を引き連れ、越後を脱出した。
また、落城に際して越後を逃れた者は少なくなかったようだ。
一行は大雨の中を夜通し歩き続け、この木ノ根小屋にて一泊した。
当時「お助け小屋」ともいわれていた木ノ根小屋は雨露をしのげる程度であり、藩主をはじめとした大勢が入り込んだために、 小屋内に入れず外で食事を取ったという記録も残っている。
国道289号 点線国道八十里越 [中編] 40 河井がここを通ったのはその年の八月四日のことである。
七月二十五日、奇策を講じて一度は長岡城を奪還するも、数日で再び城は新政府の手に落ち、河井ら長岡藩士たちの悲惨極まる敗走劇が繰り広げられることになる。
北越戦争において会津へ脱出する人の数はこのときがピークであり、八月一日から七日の間に5000人とも8000人ともいわれる藩士やその家族が故郷を捨てて脱出した。
木ノ根小屋は負傷者であふれかえり、野宿をする者もあれば、あまりの人数のために一度には山を降りられず、数日の間順番待ちをする者まで出る有様であった。
国道289号 点線国道八十里越 [中編] 41 当時はこの峠に陣地が敷かれ、敗走する旧幕府側と追撃する新政府側での小競り合いもあったという。

今ではその面影を偲ばせるものは何もなく、それらの事実を示す看板すらない。
血塗られた戦乱の歴史は時間とともに自然の中に拡散しつつあるようだ。
国道289号 点線国道八十里越 [中編] 42 現在の国道289号の県境から福島側は明治時代になって新たに開削されたもので、河井らが通った道はそれとは異なる。
峠付近に「八十里古道入口」と書かれた標柱が立っており、ここからかつてのその道へと分岐している。

が、分岐の先は絶望的な藪であり、もはや完全に自然の野山へと還ってしまっていた。
国道289号 点線国道八十里越 [中編] 43 福島県側から振り返って撮影。

おそらく、かつて長岡藩士達が見た峠の姿と、今の姿は相当異なるに違いない。
保守管理も行われなくなった道には緑が覆い、木の幹はほとんど峠道を隠さんばかりに伸びている。
静かで古道らしい切り通しの峠の中に、史書で語られる騒乱の歴史があったとは俄かには信じがたいものがある。
国道289号 点線国道八十里越 [中編] 44 只見へと続く国道の先。
踏み跡はしっかりしており、登山道として麓まで降りていくことには問題なさそうだ(ずいぶん感覚が麻痺してきたような・・・)。
また、このあたりはちょっとした広場になっており、実際に小屋や陣地があった場所かもしれない。
国道289号 点線国道八十里越 [中編] 45 さらに、この木ノ根峠は八十里越という道の終焉の場所ともいえる。

幕末の動乱を過ぎ、日本が近代化を成し遂げていくと、人々の動きはますます活発になっていった。
前述のとおり、八十里越は明治に入ってからも2度も改修され、荷車も通れるような立派な道となり、木ノ根小屋は物資の荷継所として発展した。 茶屋として営業を始めたのもこの頃といわれる。
しかしながら、大正時代に岩越線(現在のJR磐越西線)が開通すると、往来はそちらへと移り、沿道に集落もない峠道は荒れ始める。
空堀や田代平の山小屋は相次いで閉鎖され、最後に残ったのがこの木ノ根小屋だった。

そして、木ノ根峠の凄惨なる歴史はここでも牙をむく。
昭和4年(7年?)春、最後まで八十里越の道を守っていた小屋番が凍死するという事故が起こった。
これ以降、八十里越の道に人が常駐することはなくなり、往時の姿はここへ来て完全に費えたのである。
国道289号 点線国道八十里越 [中編] 46 木ノ根茶屋跡と記された石碑と向かい合うように石の何かが安置されていた。
山神の祠だろうか?あるいは少なくない数の長岡藩士たちがきっとここで息絶えたであろう事を考えると、墓や慰霊碑的なものかもしれない。
祠だとすると相当古いようにも見え、幕末の悲壮な逃避行をその目で見ていた可能性もある。
雨中の山道を、故郷を捨てて夜通し歩き続ける人々の心境や如何ほどであったことだろう。
神にすがる思いもあったに違いない。
この山の山神は、彼らの思いに応えたのだろうか。


今、木ノ根峠は藪と静寂に包まれ、田畑を血で染めたといわれるほど凄惨な北越戦争を思い起こさせるものはどこにもない。
だが、ここは確かにその現場となり、人の生き死にがあった場所なのである。
私はただ、穏やかで静かな峠の中で手を合わせていた。
当初は県境から福島県側に下りていくことも考えていたが、体力的な問題(自転車と一緒)から予定を変更。
そもそものこの旅の目的であった鞍掛峠へのリベンジを果たすべく、再び新潟県側に戻ることにした。
[ 07' 7/7 訪問 ] [ 07' 10/21 作成 ]
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