国道8号 親不知旧道 2

概要

国道8号 親不知旧道の地図
崖にへばりついたせまっくるしい旧道を行く。
旧道とはいえ国道管理用及びJRの保線用の道路として利用されており、そこそこの手は入っている。

2-1 悲劇の道は今も昔も

国道8号 親不知旧道 15 こうして見ると、やはりひどくクリティカルな場所に刻まれた道であることがわかる。
切り立った法面といい、この先の崖の斜度といい、不安定な地形の上になんとか成立したような道である。

また、地形的に道路の拡幅も厳しい。
国道8号 親不知旧道 16 上の写真の崖側には、また下に下りる階段があった。
今度のは先ほど洞門出口に見られた簡易的なものとはと違い、しっかりした作り付けの階段だ。
ちょっと降りてみよう。
国道8号 親不知旧道 17 古びたコンクリートが支配する旧道には似つかわしくない、原色のペンキが塗られた階段を下る。
薄暗いコンクリートの箱の中には線路が見え、どうやらJRの保線通路らしい。
国道8号 親不知旧道 18 降りきった先は線路で終わる。
線路は単線であり、これは北陸本線の上り線だ。
北陸本線は全線電化複線で、子不知の区間は単線トンネルを並べて複線としている。
すなわち、もう少し先にある、かつての子不知災害の際に迂回路として指定された国鉄トンネルも、当然単線。
単線の狭い路を、それも鉄道用の1kmを越えるトンネルを、大型車が走ったなんて・・・。
も、萌える・・・


ちょうどこのあたりはJR勝山トンネルの西口にあたるが、この場所はかつて大規模な災害に見舞われている。
大正11年2月3日、除雪人夫を乗せた臨時列車(6両編成、130名乗車)が作業を終え、糸魚川方向へ向かっていた。
列車が勝山トンネル西口、まさにこの地にさしかかったその時、大雪崩が発生し、あろうことか走行中のその列車を直撃。
これにより客車3両が大破、死者73名、負傷者30名の当時の国鉄としては未曾有の大惨事となってしまったのである。
当時は現在のように洞門に覆われておらず、雪崩のエネルギーをまともに受ける形になってしまったのだ。

さらに、勝山トンネル内部では昭和41年3月9日に落盤事故が発生し、死者が出ている。
鉄道という近代的な交通が通っていたとしても、親不知は悲劇の舞台であることに変わりはない。

2-2 めがねっ子不知洞門

国道8号 親不知旧道 19 旧道に戻り、先を目指す。
足元にはセンターラインのような消えかけた白線が残っているが、明らかに右側と左側で幅が異なる上、異常にぶっとい。
ひょっとしたら、かつてはこの線の左側にもう一本の白線があり、二本一組でセンターラインとして機能していたのかもしれない。
国道8号 親不知旧道 20 その先のロックシェード。
鉄骨はいい塩梅にさび付いており、周りの緑とともに旧道に華を添えている。

ロックシェードの上にはなにやら看板が掲げられていたような枠が残っているが、中身はない。
おそらくこれには、幅員狭小であることを注意するような警告標識が掲げられていたことと思われる。
そのわけは、後述するロックシェード内部の特徴的な構造にある。
国道8号 親不知旧道 21 入り口には緑に埋もれかけつつも「深谷」の文字が。
現道である子不知高架橋は、竣工当時「深谷高架橋」といわれていたことは前回述べたとおりである。
名称の変更にどのような理由があったかは調べがつかなかったが、現在ではこの「深谷」の名前は高架橋の先の洞門の名前として残っている。
思うに、高架橋完成後に橋の前後に洞門が設置され、その洞門の名称として深谷の名がつけられたのだろう。
混乱を避けるために、高架橋の名前が変更されたものと考えられる。
国道8号 親不知旧道 22 振り返って撮影。
鈍色の綻びた屋根がたまらん。
苔むしたコンクリートがたまらん。
要所要所を押さえた雑草がたまらん。

さすがは一桁国道旧道だ。
約20年という絶妙の熟成期間もあって、その廃美たるや
国道8号 親不知旧道 23
うっほ!!!!
国道8号 親不知旧道 24 たまんねえ。

中央から撮ってしまったので分かりにくいかもしれないが、なんと道のど真ん中から中央分離帯ならぬ「中央分離」がそびえていた。
ただでさえ狭い幅員だというのに、これがなおさら邪魔をしている。
また、コンクリート製の洞門は中央半ばで途切れており、右の崖側は鉄骨で作られた簡素なものになっているという、他に類を見ない施工だ。

どう見ても交通の障害となりうるこんな施工にしなければならなかったのには、もちろん理由があった。
昭和40年、子不知区間の改良工事が始まってわずか3ヵ月後に、子不知災害が発生、国道にとっては致命的とも言ってよい規模の大災害となった。
災害前の改良工事の計画では、山側を削って道を広げる予定であったが、地山を不安定にしてしまうこのような工法は変更を余儀なくされたのである。
山を削らずに幅員を拡幅するとなれば、あとは空中に桟橋をかける以外にないわけだが、 先ほど探索したように、崖側のすぐ足元には線路が走っており、大きく拡張することができない。
そのために、十分な土台を必要とする重厚なコンクリート洞門を造ることもままならなかったという。
おそらくそこで苦肉の策として考えられたのが、山側をコンクリート、崖側を軽量な鉄骨で作るというこの特徴的な構造なのだろう。
中央の柱は本来車線を分けるためのものではなく、どうしても一車線分しか造れなかったコンクリート洞門を支える柱なのである。

そういう事情があるにせよ、交通にとっては邪魔者以外の何者でもなかったことは、左車線だけ削れた柱が明瞭に示している。
国道8号 親不知旧道 25 こちら側からの入り口である左車線には扁額が掲げられていた。
正式名称は「子不知洞門」であるが、その外見から「めがね洞門」とも呼ばれていた。

また、この脇には銘板もある。
それによれば昭和42年の竣工とのこと。
その竣工から子不知高架橋が完成するまでの20年間、こんな狭いところを大型車が側面を削りながら走っていたのである。
ドライバーの悲鳴が聞こえてきそうだ。
国道8号 親不知旧道 26 見よ!この単線のロックシェードのような狭さ!
自動車は脇を走る自転車を追い越すこともできまい。
これが旧国道8号ですよあなた。
これが親不知のみちってやつですよ。
国道8号 親不知旧道 27 反対車線もまたすごい。
空が見える分多少開放感は得られるが、とてもこれが(旧)一般国道とは信じがたい。
こんな道が果たして日本国内の他の場所にあるだろうか。

鉄骨には屋根となる鉄板が設置されているが、竣工当時の写真ではアーチ部分全体を鉄板で覆っている。
人為的に外す理由はないだろうから、時の流れの中で劣化し、消えていったのだろう。

柱の下半分で色が変わっているように見えるのは、補修の跡。
全ての柱がこのように補修を受けており、如何に接触事故が多かったかがうかがえる。
ここを通るには、まさに針の穴に糸を通すような運転技術が必要とされたようだ。
国道8号 親不知旧道 28 柱はまだまだ頑丈さを保っている。
しかしながら、この柱だけがぶち抜かれていた。
まさか事故で折れたままということはなかろう。
現道の工事に当たり、転回所としてでも機能させたのだろうか。
国道8号 親不知旧道 29 めがね洞門は100メートルくらいだろうか。
やがて現道に合流する。
こちら側も進入時と同様に堅固なフェンスにふさがれ、自転車では越えられない。
国道8号 親不知旧道 30 ただし、旧道はもう少し先まで延びている。
資料によれば、めがね洞門こと子不知洞門の延長は164メートル。
もう数十メートルくらいはあったように見える。
鉄骨のアーチがなくなっているのは、どうやら現道との接続のために、撤去されたらしい。
国道8号 親不知旧道 31 かといってわずかに残された洞門内部を行けるかというと、こちらは土砂でふさがれてしまい、進めない。
この先で現道に合流しているようだが、現道も洞門に覆われており、仮に土砂がなかったところで行き止まりであることに変わりはない。
なお、現道の洞門内部に旧道に分岐するような設備はなく、推定される合流地点でわずかにカーブした線形だけがそれを物語っている。
国道8号 親不知旧道 32 上の写真にある柱の右側、かつては鉄骨アーチで覆われていた場所には、現道の洞門上に登るスロープが造られている。
今では全区間を洞門に覆われ、親不知の峻険振りを直に望めるところは少ないが、洞門の上からはその絶壁たるを見ることができる。
かつて洞門がなかった頃も、このような光景が車のフロントガラスには映ったことだろう。

まったく、とんでもない所に道を作ったもんだ。
普通なら道などありえないところだ。
このまま洞門上の上を歩いても面白そうだったが、現道に戻れる保証がない以上、深入りするのはやめておいた。
旧道を歩いて、自転車のところまで戻ることにした。
[ 06' 9/3 訪問 ] [ 06' 9/22 作成 ]
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