国道8号 親不知旧道 5

概要

国道8号 親不知旧道の地図
駒返トンネルの先は、JR親不知駅のある歌という集落だ。
子不知と親不知の間にある集落で、古来の旅人もここで一息ついたことだろう。

「歌」という雅な地名は、かつて聖徳太子がこの地で歌を詠んだという伝説に由来する。
かつてはJR親不知駅の裏にその歌碑があったというが、今ではそれも砂に埋まってしまったという。

5-1 一息

国道8号 親不知旧道 66 集落に向かう前に、駒返トンネル西側をちょっと見てみる。
抗門には平成一桁台に竣工したトンネルによく見られる、レリーフが施されていた。
ここでは馬のレリーフで、駒返トンネルの由来となった馬の絵だろう。

・・・しかし私はどうもこういうのは好きになれない。
なんだか、自己主張が強すぎるというか・・・
国道8号 親不知旧道 67 集落の方向には、先ほど旧道のフェンス越しに見た巨大な北陸自動車道の高架橋が見える。
国道もその下を直進しているが、この国道も一部区間は高架橋になっている。
高架橋が作られる前の道は、集落の中心部を通っていた。

5-2 言葉も忘れる天下一の険路

国道8号 親不知旧道 68 歌地区からさらに西へ進み、外波という集落を過ぎると、ついに狭義の意味での親不知区間が始まる。
集落で一息ついたのもつかの間、いよいよ「天嶮」に向かうのだ。
気が引き締まる。
風波地区 洞門をひとつくぐると、風波という地に出る。
深く抉られた谷底にはかつて集落があったが、今ではただのひとつの家屋もない、廃村である。

風波は現在の国道においてはおそらくもっとも線形の悪い場所だ。
子不知区間では度重なる改良の結果、線形が悪いといっても曲線半径においてはそれほどひどいものはなかったが、 風波のカーブは曲線半径30メートルという強烈な急カーブで、おまけに見通しの悪い洞門を抜けた直後という現代の一桁国道にあるまじき線形なのだ。
地図を見ても、ほぼ直線状に延びてきた道が、ここ一箇所だけでΩ字のように曲がっている。
このような線形は深い谷を避けるようにして道が造られた結果だ。

さらに、ここは谷の東側の路盤と西側の路盤で数十メートルの高低差が存在し、谷をぐるりと迂回する現道ですら6%以上の勾配で登っていく。
いくら深い谷であっても、普通は足長な橋脚をもつ橋を建設すれば、その線形を容易に攻略できるものだが、 そんな高低差のあるところを直線的な橋で結んでしまえば、車両にとっては絶壁のごとき急勾配になってしまうのだ。

昭和の時代には(主に財政面で)改築が困難であった風波の急カーブであったが、平成になってようやく改良工事の計画が決定されている。
その計画は、3km近い長大トンネル(正確に言うと309+2376mの二本)を掘削し、この先の親不知区間を丸ごとトンネル化しようというものだ。
ただ、これもすでに検討段階に入っているものの、着手されている様子はない。
なにしろ、北陸新幹線という国家プロジェクトが始まってしまったのだから、長大トンネルを掘るスペースもそちらが優先されるのだろう。
国道8号 親不知旧道 69 風波のΩカーブにはいろいろと見所がある。

そのひとつめは、カーブの入り口にある展望台。
日ノ本一の険路、「天嶮」と呼ばれた断崖絶壁が、目の前に広がる。
国道8号 親不知旧道 70
・・・
国道8号 親不知旧道 71 えっと、どこ通ってたって?


・・・断崖の下って・・・・・・
アレだというのか?



信じがたいが、それが歴史の真実。
これが、天下一の険道、そして、実際に多くの命が波間に沈んだ、その道である。
親は子を忘れ、子は親を忘れたという親不知子不知の地名の由来も、ぞっとするほどの説得力を感じよう。
「天嶮」の名に寸分違わぬ場所だ。

この地に渦巻く歴史に思いを馳せ、数々の文学も生まれた。
泉鏡花や水上勉などの作品にも登場し、短歌や俳句なども含めれば星の数ほども挙げられよう。
それら全てに目を通したわけではないが、参考資料とした「親不知のみち(昭和57年)」に掲載されていた、 いくつかの文学作品の中から私が最も感銘を受けた磯野昧山の詩を載せてみる(元は漢詩)。
起立することざん巌にして半天に聳え 怒涛岩をかみ 水、煙を生む
幾人の恨みを含み、逝きて返へることなし
唯 海山ありて 旧より伝わるのみ
国道8号 親不知旧道 72 現在の国道はその崖のはるか頭上を走っている。
この道は明治になって造られたものだ。

あの絶壁を避けて山越えをしようとも、連なる山並みは恐ろしく複雑かつ急峻な地形だ。
山越えの道がなかったわけではないが、メインにはなりえなかったという。

5-3 風波立つその地の風波橋

国道8号 親不知旧道 73 Ωカーブの頂点では、大きな橋で谷を渡っている。
これは現道の風波川橋。
国道が現代的なつくりへと大変貌していった、昭和41年の竣工である。
当然、旧橋の存在が予感される。
国道8号 親不知旧道 74 旧橋はΩカーブのさらに先にあった。
ガードレールで封鎖され、人が出入りしているような様子は全く見られない。
一応コンクリート橋ではあるのだが、橋の両脇から木々が侵食しており、おおよそ橋らしさというものがない。
まるでどこか林間の道のようだ。

親柱もなく、現地での情報はなかったものの、資料ではこの橋は「風波橋」といい、昭和14〜15年頃に竣工したものだという。
となるとこの橋はおそらく二代目である。
明治時代の初代風波橋があったと思われるが、それに関する情報は得られなかった。
かつてはこの橋の下に風波集落があったわけだから、初代の橋は集落を通る谷底にあったのかもしれない。


これまでの旧道はガードが固かったが、ここはガードレールひとつ。
重い荷物を積んだ自転車でも担ぎ上げて越えることができた。しんどかったけど。
国道8号 親不知旧道 75 二代目は延長20〜30メートルくらいだろうか。
紛れもなくコンクリートの永久橋であるはずなのに、舗装の上から植物が生えてきている。
脇から伸びる木々の落ち葉を土壌とし、さらに代を重ねることによって先代の遺骸をもまた土壌として、ここに植物群落が生まれたのだろう。
廃道の中の橋の上というのはたいてい藪から開放される場所なのだが、ここは橋の上すらも藪に包まれつつある。
国道8号 親不知旧道 76 竣工当時の低い欄干の内側はほとんど藪に埋もれ、それが見えるところはわずかだ。
また、縁石程度の高さしかない(舗装や補強に埋もれているのだろうが)それはほとんど役に立たず、内側にガードレールが置かれていた。
向こうに見える三代目、風波川橋が開通したのが昭和41年であるから、単純にいえば二代目風波橋は放棄後40年は経過していることになる。
ちょっとこのガードレールは40年前のものにしては真新しく見えるが、どうだろう。
国道8号 親不知旧道 77 それほど長くない二代目風波橋を何とか相棒と一緒に通過し、振り返る。
右の看板にでっかく「林道工事中」とあり、なにやら作業場のような建物も近くにあった。

地図上ではこの先山に入っていく道はないが、明治11年の明治天皇北陸巡幸の際には、一行はこの付近から山に入り、西へ進んでいった。
それはもちろん、先ほど見えた「天嶮」の絶壁があまりにも危険であったため、これを避けるためである。
その山道は歴史的に利用されていた道ではなく、巡幸にあわせて整備されたという。
現在ではその道も地形図から消えてしまったが、風の噂にそれを再整備しようという話も聞いた。
林道の工事は、それにあわせたものかもしれない。
国道8号 親不知旧道 78 自転車と一緒に谷を越えられたのでわざわざ現在の風波川橋に戻る必要はなかったのだが、写真を撮るために橋まで戻ってみた。
ただ、橋の位置関係からきれいに二代目が見える場所がなく、こんな感じで許してほしい。
昭和14年頃竣工といえば、昭和8年頃竣工の二代目洞川橋とほぼ同じ時期に架けられた橋である。
同じような歴史を持つ橋であるが、洞川橋は桁橋、風波橋はアーチ橋と、変化に富んでいる。
全親不知区間のうち、3分の2ほどは来た。
終わりは見えたが、まだ気は抜けない。
なにしろ、最後にして最大の難所、「天嶮」が、この先に待っている。
[ 06' 9/3 訪問 ] [ 06' 10/13 作成 ]
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