国道8号 赤田トンネル旧道 曽地峠 1

概要

国道8号 赤田トンネル旧道 曽地峠の地図 国道8号は新潟県新潟市から京都府京都市まで至る、泣く子も黙る一桁国道である。
その歴史は江戸時代の北陸街道や古来五畿七道の北陸道にまでさかのぼることができ、現在の路線は概ねそれらの道に沿っている。
ただし、国道8号には北陸街道や北国街道、三国街道などさまざまな街道が入り混じっている上、それぞれについて明確な区分がなされておらず、 ネット上で見られる北陸街道についての情報でも、「北陸街道(北国街道)」等とあいまいな表記がなされているところが多い。

その辺の事情は置いておくとして、今回紹介する曽地峠についての概略を述べる。 妙法寺峠(沖見峠)との関連が深いので、まだご覧になっていない方はぜひそちらから先に見ていただきたい。

京都から伸びてきた北陸街道は天下の険路、親不知を越え、直江津を経て柏崎に達し、更にそこから新潟を目指す。
現在の国道8号は柏崎から内陸に入り、長岡を経由しているが、当時の北陸街道はそのまま海沿いに北上していた(らしい)。
これは出雲崎や寺泊といった佐渡の金運搬のための港が日本海沿いに集中していたためだろう。
しかし、現在の国道8号がそうであるように、越後の大大名、長岡藩との人の流れは相当なものであったため、北陸街道と長岡を結ぶ道が当然必要とされ、 その役を明治の初めまで担っていたのが旧新潟県道393号 妙法寺峠であった。

その役目を妙法寺峠から奪ったのが、この曽地峠。
曽地峠の勃興と妙法寺峠の没落、それらの引き金となったのが、妙法寺峠の項でも述べた明治天皇北陸巡幸である。

明治11年、明治天皇の北陸巡幸にあたり、かなり以前から周辺住民にその周知がなされていた。
輦路(天皇が乗った輿が通る道)の設定にあたっては、現在で言うところの高規格な道路が求められ、道普請の指令もあったことだろう。
実際、当時の街道であった妙法寺峠も新たに車道を開削したのだが、この曽地峠の麓にある赤田町方という集落でもその機運が盛り上がった。
西中通村丸田謙二氏の発議により、山を切り開いて峠を開削することが決定され、県からの補助一万円、沿道村民の負担四千円をもって明治11年5月起工、 わずか三ヵ月後の同年8月竣工という脅威の突貫工事で曽地峠が完成した。

これらの努力の結果、妙法寺峠よりも平坦かつ近距離な曽地峠が完成するに至り、輦路、 さらには当時妙法寺峠にあった県道指定までも奪い取ることに成功したのだった。
明治18年の旧道路法では国道5号に指定され、一時期県道に降格したものの、昭和27年の道路法では一級国道8号線に指定された。
昭和39年には一級二級の区別がなくなり、そのまま一般国道8号線となった。
権勢の絶頂を迎える曽地峠を、昭和には激しく没落していく妙法寺峠の沿道住民はどう見ていたことか。

このように主要道路としての地位を築き上げていった曽地峠であったが、一桁国道として現在の莫大な交通量には長くは耐えられなかった。
屈曲や隘路もあって特に冬期間は著しく渋滞し、ロードヒーティングまで設置されてその解消に当たっても所詮焼け石に水だった。
もともとは800人程度の天皇一行を迎えるために作られた道、何台ものダンプカーが爆音を響かせて連なっていくことを想像して作られたものではない。
昭和60年3月、峠下にトンネルが完成し、その役目を終えることになる。


まさに妙法寺峠との戦いのためにこの世に生まれた戦士、曽地峠。
戦いに勝利した後も、増え続ける交通量を捌くのに懸命だったに違いない。
波乱に満ちた"道"生も過ぎ、今はただ足元を行く車列を眺めている。
そんな中、ひょっこりと現れたひとりの旅人を、老兵はどう迎えてくれるのだろうか。

1-1 賑やかな廃墟

国道8号 赤田トンネル旧道 曽地峠 1 歴史深い妙法寺峠を越え、油田(あぶらでん)集落を縦断して国道8号に到達した。
流石に大型車の占める割合が半端じゃないが、十分に広い路側帯に守られ、自転車の走行に今のところ不安はない。
路側帯さえ十分な幅があれば、どんな交通量でも安全に走行できる。逆に言えば、わずかな交通量でも路側帯が皆無なのは危険だ。
したがって、そこらの都市間県道なんかが私には一番恐ろしい。

妙法寺峠からここへのアクセスに利用した油田の集落を始め、ここらへんはかつて石油を産出した地域である。
国道への最短路となった集落内の農道らしき道の沿線にその遺構がないか探しながら走ってみたが、残念ながらそれらしいものは見当たらなかった。
国道8号 赤田トンネル旧道 曽地峠 2 国道に入ってすぐ、いきなり目の前に飛び込んできたのがこの廃墟。
どうみてもラブホテ○なんだが、ご休憩のみらしい。
敷地内は背丈ほどもある雑草に覆われ、広場をはさんで向こう側にある三角屋根の建物の様子は分からない。
国道8号 赤田トンネル旧道 曽地峠 3 道に面してカラオケルームのような小部屋が一列に並び、渡り廊下でつながれている。
錆びや汚れで一見荒廃しているように見えるが、骨組み自体はほとんど生きているように思えた。

が、扉の外れたその内部を塀越しに見てみると、ひどい有様だ。
なんかね、"壊れている"というよりも"壊されている"感がひどい。
上から崩れたというよりも横から下から若い力でブチヌキました、そんな印象だ。
あえて写真には収めないよう努力したが、とても芸術的とは思えないスプレーの落書きがあらゆるところに描かれている。
国道から目立つこの廃墟は変な連中の溜まり場にもなっているようだ。

廃美を求める私であるが、ここにそれはないと断言する。何の情緒も風情も感じられなかった。
猿ヶ馬場の廃墟のような、しみじみとした薄ら寂しさがどこにもない。
原色の落書きが深夜の奇声を暗示しているようで、誰もいなくても喧しい廃墟である。
この廃墟への侵入は多分、別の意味で危険。
国道8号 赤田トンネル旧道 曽地峠 4 さすがによく整備され、近代的な一桁国道。
登り勾配には登坂車線も設けられ、大型車の交通を意識していることが分かる。
一部には旧道と思しき分岐も見られたが、集落道として現役であったため、探索は見送った。

廃墟からしばらく進むと、目的の峠へ至る分岐が現れた。
左の旧道はここから更に登り、頂を目指すが、右の現道はこの分岐からすでに下り始めている。
妙法寺峠を越えて山を降り、再び曽地峠を目指して登ってきた私はさっさと下りたい衝動に駆られるも、explorerとしてそれはできない。
ひとまずは現道のトンネルを観察してこよう。右へ進む。
国道8号 赤田トンネル旧道 曽地峠 5 トンネル直前にはこんな親切な看板があった。
意外と広域を旅する自転車人間も、やはり国道を通る機会は多く、このあたりも自転車で走る人間が多いのだろう。
ただ、ここに限っていえば、交通量の多い国道8号よりも県道393号、あるいはその旧道である妙法寺峠のほうが気分よく走れる。

しかしこの看板、弾丸のようにトンネルに突っ込んでいく車の中から、いったいどれだけの人がそれと気に留めているものか・・・
国道8号 赤田トンネル旧道 曽地峠 6 現道の赤田トンネル長岡側坑口。
コンクリートの巻き立て以外何もない、シンプルなポータルだが、上部がにょきっと突き出た特徴的な面もある。
比較的規模の大きいトンネルには時折見られる構造だが、おそらく簡易的なロックシェッドやスノーシェッドの意味合いもあるのだろう。

その突き出た巻き立てのせいか、本来あるべき扁額が見当たらない。
ちょっと周囲を見回してみると・・・
国道8号 赤田トンネル旧道 曽地峠 7 道路脇の藪に埋もれていた。

両手を広げても足りないほどの幅があるゴツイ岩に、赤田トンネルと掘られた扁額が埋め込まれている。
巨大な岩塊と扁額は天下の一桁国道にふさわしい迫力と威厳をぶつけてくるが、藪に埋もれているのはいただけない。
今ではこの重厚な扁額の代わりに、軽薄ともとれる薄っぺらな看板がこのトンネル名をドライバーに示している(上の写真)。

幹線国道としての地位を妙法寺峠からもぎ取った、今は亡き峠の老兵の代わりとして、このトンネルが造られた。昭和60年のことだ。
それを象徴すべき扁額が藪に埋もれてしまうような扱いを受けるのは、峠とそれを切り開いた先人に対して同様の仕打ちをしているような気がしてならない。

1-2 老兵に会いに

国道8号 赤田トンネル旧道 曽地峠 8 さて、旧道への分岐に戻ってきた。
分岐には車止めとともに「この先車は通れません」と書かれた看板が掲げられ、車両の通行は禁止されている。
看板の文章だと徒歩ならいいのかと思ってしまうが、車止めには関係者以外立ち入り禁止という札がぶら下がっており、 行って良いのか悪いのかはっきりしてほしいものだ。

車止め越しに旧道を見る限りでは、線形も勾配も道幅も十分一桁国道として機能しうるように見える。
柵の脇をすり抜け、進入。
国道8号 赤田トンネル旧道 曽地峠 9 「ひれー」

それがこの道の第一印象であった。
国道の峠越え旧道といったら、山岳路よろしく道はうねり、1.5車線の狭い道が山の中に続いていくようなものをイメージするが、 ここは旧道であっても大型車でも楽々の二車線を確保している。
現役の道と比べてもなんら遜色なく、むしろトンネルの中よりも広いような気さえする。
あまりのスペックの高さにここが旧道であることも信じられず、道の中央で写真を撮るのはどこか緊張した。
目の前から突然トラックが現れそうで。

なにより、妙法寺峠という三桁県道の旧道を抜けてきた後である。道幅でいったら妙法寺峠はここの3分の1、いや4分の1か。
輦路を得たか逃したかで、こうもその後の運命が変わってしまうのかとしばし立ちすくむ。
国道8号 赤田トンネル旧道 曽地峠 10 すぐ脇ではそのトラックがつぎつぎに現道トンネルに吸い込まれてゆく。
この道が現役時代に響いていたその音は、一線を退いた今でもこの道にこだましていた。
実際にその姿がなくとも、聞こえる音だけはこの道は現役当時となんら変わっていないようだ。
国道8号 赤田トンネル旧道 曽地峠 11 また、道端にはこのような庭石のような岩塊がかたまって置かれているところがあった。
周辺に崩落の形跡はなく、その配置からして人為的に外部から持ち込まれたものであることは間違いない。
不法投棄なのかもしれないが、あるいは先ほど見た扁額を埋め込んだ石の候補か?大きさ的には扁額のあったあの岩とどれもほぼ同じ。
このあたりで石を切り出したような様子はなく、外で切り出した石をここまでもってくるとは考えにくい。
トンネルを掘る際に生じた岩なのかもしれない。
国道8号 赤田トンネル旧道 曽地峠 12 ぐいっとひとつ左にカーブを切ると、そこはもう峠。
深い切り通しの中に、老兵はいた。

1-3 曽地峠

国道8号 赤田トンネル旧道 曽地峠 13 峠の直前で記念撮影。

分岐からここまでは非常にゆるい上り坂で、カーブもそれほどきつくなかった。
しかし、峠の向こうには急カーブが待ち受けているようで、古いタイプの警告標識には「注意 CAUTION」と書かれ、 時速30キロにまで落とすように警告している。
流石にこんなところで30キロまで落とせば、渋滞するのもむべなるかな。

足元には折れたデリネータが転がっており、そこには「建設省」の文字が。
闘い続けた老兵の遺品である。
国道8号 赤田トンネル旧道 曽地峠 14 振り返って撮影。

峠はかなり深く切り下げられている。
かつて、明治天皇をお迎えするために開通したこの峠は今よりも高いところにあったが、 一級国道の指定を受ける以前に2回ほど大規模な切り下げ工事を行い、今の姿になったという。

切り下げ箇所の両脇には法面を保護するコンクリートの壁が聳え立っている。
高さは2メートルをゆうに越え、おまけにその上には雪崩防止用の鉄柵が備え付けられていた。
その壁に囲まれると、まるで刑務所の塀の中にいるような威圧感を感じる(実際にいたことはないが)。
燻し銀の輝きともいうべきその迫力は、屈強な戦士の前に座するが如し。
その彼と、私は今、対話している。
国道8号 赤田トンネル旧道 曽地峠 15 ここまでの区間も含めて、まだまだ一桁国道として通用しそうな道であった。
しかし、管理されない道は着実に"死"へと向かっている。
頑丈な壁の上に設けられた雪崩防止策もかなり錆び付いており、雪崩で一部は倒壊してしまっていた。

現道に切り替えられたのが昭和60年のことであるから、この峠は放棄後20年ということになる。
20年もすればたいていどこかに致命傷を負うものだが、峠までの区間にダメージらしいものはこの雪崩防止策の崩壊のみ。
地形的に穏やかであるというのも大きいだろうが、一桁国道として高規格な整備が行われていた証拠でもある。
老兵は今なお健在。
まだまだ死することなく、かつての姿を私に見せてくれた。
彼に別れを告げ、峠の柏崎側へと降りてゆく。
[ 05' 11/26 訪問 ] [ 06' 3/24 作成 ]
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