谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 0

概要

谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よの地図
その日、私は曽地峠に関する知見を得るために、大学の図書館で柏崎市史を探していた。
だが、あるのは資料編ばかりで、肝心の通史編がない。調べてみると、通史編は「研究室貸し出し」であり、おいそれとは見られないところにあるという。
大学図書館で市史も見られないとはどういう了見だと憤慨したわけだが、しょうがないので資料編の道路写真を眺めることにした。
そんな偶然が、「谷根のトンネル」と題された衝撃的な一枚の写真の発見に至ったのだ。
柏崎市の許可を頂いたので、その写真をご覧頂こう(柏崎市史資料集近現代編3上より抜粋)。

柏崎市史、谷根のトンネル1

隧 道 !!

見るからに古びたその隧道、写真を見ただけでも衝撃を受けたのだが、横の説明文を読み進めた瞬間、間違いなく私の心臓は一瞬停止した。

柏崎市史、谷根のトンネル2

明 治 23 年 !!!

古い!
古い!!
Toooo OLD!!!!!!

新潟県内にある隧道でも、道路隧道で明治竣工のものなど片手で数えられるほど、まして、明治23年など、これ以上に歴史ある道路用隧道を、私は知らない!
そして何より、昭和60年発行の柏崎市史において、すでに廃隧道とされているのだ!
すなわちこれは、改良などを受けずに現在でも廃されたままであるということに他ならない!!!!!!
燃える!燃え上がってくるぜ!!!


早速机上調査に入ったのだが、手がかりはこの市史の説明文のみ。
それは、「谷根(タンネと読む)という集落のそばにある」 「柏崎市の隣、鯨波の集落から米山登山道を登ったところ」その二つだけであり、 おおよその位置はつかめるものの、山がちな谷根集落のいったいどこにあるのか、現在の地形図にはもちろん、ネットのどこにもそんな情報がない。
分からないほうが燃え上がるというのが研究者としての魂というか、とにかくその隧道への興味はとどまることがなかった。
そして、図書館にて古い時代の地形図を隅々まで見ていくことにした。机いっぱいに地形図を広げたときの私の目は大きく見開き、 ともすれば目の前の地形図に喰いつかんばかりの勢いであったことを自覚している。

そしてついに、発見に至る・・・

昭和32年と現在の地形図
キタ━━━━━━━━━ !!!

位置関係からして間違いなし!
地形図の隅っこのほうに申し訳なさそうにあったそれは、やはり現在では廃隧道となっていたのだ!
昭和32年の地形図には載っているその隧道は、昭和44年の地形図からはすでに消滅している。
その間に完全に放棄されてしまったのだろう。
これは、行かねば、征かねばなるまいッ!

はやる気持ちははちきれんばかりであったが、机上調査を行っていた頃はすでに冬真っ只中。
26年ぶりの豪雪となったこの冬の探索はあきらめ、雪解けを待って調査に向かったのである。

0-1 自転車の旅の醍醐味

谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 1 自転車で日本海沿いを南下すること数時間。
向かい風に苦しめられながらも、昼前には柏崎入りすることができた。
ひさしぶりに晴れ上がった空の下、半袖の私の腕はジリジリと音を立てるように焦げていくが、真夏のように脱水で死に掛けるような暑さでもない。
あー、この時期の自転車が一番気持ちいいな。

写真は旧西山町・柏崎市境を過ぎたあたり。
ここで観音岬という岬のサミットを過ぎると、この日初めての米山が見えてきた。
米山が見えてくると、「柏崎に来たなあ」という実感がわいてくる。
眼下には柏崎刈羽原子力発電所も見え、ここはもう住み慣れた場所から遠く離れた異国の地であることを感じさせてくれる。
この旅情は、自動車、いや、たとえ輪行であってもなかなか味わえない気分だ。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 2 柏崎にはもう何度も訪れているが、なかなか活気のあるいい街だと思う。
この日はどうやら海沿いの道路でマラソン大会が行われていたらしく、うっかり私はそのコースに迷い込んでしまった。
沿道の声援に元気をもらい(いや別に私に向けてたわけじゃないんだが)、選手に向かっていた放水がなぜか私に向かってきたりして、 とにかくも目的地へ向けて柏崎市内を進んでいく。

0-2 東側坑口目指して(?)

谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 3 柏崎市内で国道8号に乗り、ややもすると目的地である米山登山道が左に分かれた。
隧道は現在の地形図から消えてしまったが、その東側坑口近くまで伸びる道は一応続いている。
ここがその入口になるわけだが、現地には隧道の案内はもとより、登山道としての案内もない。

ちなみに、このあたりは信越本線旧線の米山八号隧道のすぐそばであり、 写真奥の小さな丘の下を、八号隧道が貫いている。
八号隧道も明治時代に竣工した立派な古隧道だが、実は目指す谷根隧道はこれよりもなお古かったりする(八号隧道の竣工が明治30年、谷根隧道は同23年)。
また、信越本線(当時は北越鉄道)の開通により谷根隧道の運命も変わっていくのだが、これは後述しよう。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 4 上の写真の分岐を左に折れると、米山に向かってすぐに高度を上げ始める。
そして、その路傍には道標と薬師像が安置されていた。
道標は私の身長ほどもある巨大なもので、現地ではその文字はいまいち判別できなかったが、 柏崎市史によれば「右の砂はら道は京江戸おうらい、左の坂は米山薬師さんけい路」と書いてあるという。
なるほど、いわれてみれば確かにそう彫られている。
道標の建立は寛政年代(西暦1789〜1800年)と、歴史あるものだ。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 5 古くは江戸時代の「米山薬師さんけい路」に始まり、柏崎市史にも「米山登山道、鯨波口」とあるこの坂道だが、現在では別の使命が与えられている。
否、それも過去形で表現するべきだったか。
その使命とは、柏崎トルコ文化村へのアクセスである。

柏崎トルコ文化村は、平成8年に開園したテーマパークだ。
個性的なサービスでそれなりに知名度はあったらしいが、そこは全国の地方都市のテーマパークの宿命、県外からの観光客を呼べるほどではなく、 わずか3年で閉鎖されてしまった。
その後、平成14年に柏崎市が買い受け、無料で開放するものの、経営はうまくいかず、結局昨年(平成17年)の冬には再び閉鎖に追い込まれた。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 6 さらに坂道を登っていくと、正門ゲートだ。
道が二手に分かれているが、左が園内に通じる道、正面が駐車場への道かつ旧米山登山道である。
今のところゲートや立ち入り禁止を示すものは無く、道自体は公共の道路ということで、自由に入ってこられる。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 7 駐車場は立体になっている。
去年の冬に閉鎖されたばかりにしてはずいぶんと錆び付き、バリバリの"廃"放射線を放っていた。
あまりにも手入れが行き届いてないことから、この立体駐車場は最初の閉園時(平成11年)から使用されていないのではないだろうか。
その荒廃ぶりは痛々しいほどであり、もうここに"異文化交流"が蘇ることは二度とないことを実感させる。
植えられたばかりの若い街路樹たちが、廃墟の駐車場とはあまりにも対比された。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 8 振り返って撮影。
廃墟となったテーマパークといえば、廃墟フリークにはたまらない物件である。
事実、この日も駐車場横に真新しい自動車が止まっており、一人の男性がデジカメを片手に熱心に撮影していた。
私もそんな一人なわけだが、私が好きなのは廃墟は廃墟でも綻びたコンクリートであり、 一般的な廃ホテルや廃病院や廃テーマパークといったものにはどうも食指が向かない。
これらは、いくら廃墟となっても一応の管理者がいて、多少の手入れが入っているものが多い。
猿ヶ馬場の廃墟のように完璧に放棄され、自然と融合しつつあるコンクリート、石垣、煉瓦に、私は惹かれる。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 9 一応の管理者がいるということは、パトランプをつけたこういう車が来るということである(笑)。
写真を撮っていた人は大丈夫だっただろうか。

柏崎トルコ文化村は紆余曲折を経つつも、跡地の売却も完了し、現在では私有地となっている。
いずれ消え行くその施設を、記憶と記録にとどめようというのは痛いほど分かるが、ここの侵入はとってもリスキー。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 10 さて、私は駐車場を過ぎ、さらに坂を上り詰めていく。
巨大な北陸自動車道の橋脚をくぐると、さっそく路盤は砂利になった。
隧道はすでに現在の地図から消えてしまっているが、その前後の道は地形図にくっきりと刻まれている。
そのために砂利だろうがなんだろうが、不安はない。
で、この先へ進もうとしたのだが、道に不安がない代わりに腹が不安になってきた。
突然の腹痛が襲い掛かり、このまま進めばトイレットペーパーの出番になりそうな感じだ。

・・・予定変更だ。

0-3 ちょっと休憩

谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 11 国道に戻り、近くの道の駅、「風の丘 米山」に到着。
この道の駅は国道から奥に入ったところにあり、国道からの入口も非常に不案内。
おまけに、国道からの入口には大規模な観光施設が並んでおり、客の9割を取られてしまっている。
ひょっとしたら、その観光施設のほうが道の駅と勘違いしている人もいるかもしれない。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 12 まあ、人気がないということはそれだけ落ち着いた雰囲気であるということ。
国道からは少し登ったところにあり、眺めは良いし、静かである。
トイレもしっかり管理されており、野営にはいいかもしれない。
眼下に見える赤い橋は米山大橋。

0-4 予定変更、山を迂回して西側坑口へ

谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 13 なんかどっかで見たような写真ですね、はい。
道の駅で用を済まし、またさっきの道に戻っても良かったのだが、ここからだと隧道の西口(谷根集落側)へのアプローチのほうが近い。
そんなわけで、米山大橋の下をくぐって谷根の集落に向かうことにした。
足元の谷底にはJR青海川駅と米山八号隧道がある。
実を言うと、米山の廃隧道群を探索した今年の元日、余裕があれば谷根隧道のほうにも下見に向かうつもりだった。
そのときのレポートを見ていただければ分かるとおり、時間的余裕など皆無となってしまったが。

八号隧道探索時にはここから下へ降りていったが、今回はこのまま山を登っていく。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 14 河口付近では幅数百メートル、深さ50メートルにもなる谷が形成されているが、少し上流に行けばこのように一気に狭まってくる。
人気のない新緑の道があまりにも美しい。

JR青海川駅と谷根集落を結ぶこの道は、県道257号 田屋青海川停車場線である。
大昔、米山街道(国道8号の前身である北陸街道の米山付近一帯)は現在の国道8号のような海岸に沿ったものではなく、谷根を含むもっと内陸の集落をつなぐ、山越えの道であった。
やがて街道は海沿いに変わっていくが、谷根の住民は炭の行商などで柏崎に向かう際、そういった山々を越えて行かなければならない。
大荷物を抱え、標高200メートルほどの峠を越えるのは非常に大変であり、明治23年に峠下に穿たれたのが、谷根隧道である。

ところが、明治30年に北越鉄道(現在のJR信越本線)が開通し、谷根川河口の青海川に駅ができると、そちらへの移動がメインとなる。
当時、谷根から青海川までは谷根川左岸の用水路伝いに移動していたが、駅開業に合わせて右岸の道が建設された。
その道が、現在私のいる県道である。
岩盤が川にせり出す難所もあったが、大正3年に郡道指定、大正14年の郡制廃止とともに県道に昇格した。
その後、県はこの道に利用価値が少ないとして改修に積極的ではなかったらしいが、当時中央に食い込んでいった田中角栄氏に村の総代が直訴し、 昭和28年頃から改修が行われ、現在の姿になっていったという。
今では村の大動脈として、なくてはならない幹線道路になった。

当然、交通の流れが「谷根→(隧道)→柏崎」から「谷根→青海川駅」となってしまえば、間にある隧道はその価値を失っていくことになる。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 15 国道と分かれてから3kmほどで、谷根の集落が見えてきた。
三方を山に囲まれ、残る一方も今走ってきたように深い谷底を縫うようなところで、なにやら隠れ里のような集落だ。
実際、源氏の落ち武者伝説なども残っている。
集落の奥にまでは入らなかったが、地図を見る限り結構大きな集落のようだ。

で、ここから例の隧道の西口を目指すわけだが、その分岐はもう写真に写っている。
カーブのところで左に曲がっていく小道がそれだ。
非常に微妙な分岐であり、あらかじめ地形図などで十分な下調べがないと、間違いなく直進するだろう。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 16 分岐地点から先。
足元はコンクリートの舗装で、早くもこの先がOut of Standardなことを予感させる。
一応、少なくともしばらくは農道として機能しているらしい。
また、写真左にわずかに写っている地滑り地帯の看板には、この先の道がしっかりと描かれていた。
これなら、坑口ぐらいなら問題なくいけそうだ。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 17
たぶん・・・
参考文献:柏崎市史、谷根史誌
だいぶ遠回りをしてしまったが、いよいよ坑口へ向けてのアプローチの開始となる。
果たして明治の隧道の今の姿はどうなっているのか・・・
[ 06' 5/21、06' 5/27 訪問 ] [ 06' 6/9 作成 ]
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