谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 5

概要

谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よの地図 ついに至った最終到達地点。
果たしてそこに目指すものはあるのか。

5-1 谷根隧道

谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 83 沢に沿って遡っていた道は、立ちふさがる山に負けたか、そっぽを向いて右折する。
いや、この右折は決して山に負けたからではない。
そう、その山に対し、敢然と立ち向かわんがために、その拳を振り上げる様なのだ。

「ここに、奴がいる!」

私は高ぶる鼓動を押さえながら、道を曲がった・・・
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 84
☆fじお×!×>!!?−えあ;!!!
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 85

タ━━━━ !!

ついに、
ついに!
ついに!!!

現れたその「穴倉」!!!!!!!!
見よ!
これが谷根隧道、今の姿だ!!!
明治23年竣工の隧道が、今私の目の前に!!
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 86 この感動を、なんと表現してよいのだろうか。
私の貧相なボキャブラリーでは、この沸き立つような想いを伝えることができない。


ここへ到達するために、いったいどれほどの苦労をしただろう。
柏崎市史で発見して以来、資料をかき集め、古い地形図を穴が開くほど眺めてその位置を特定し、雪解けを待ってこの地へとやってきた。
いざ坑口を目指せば、自然に帰りすぎた山中に道の行方すら要として知れず、とうとう西側坑口は確認できなかった。
東側坑口を目指せば崩落に行く手を阻まれ、それを越えても激烈極まる藪に相棒すら見捨て、自身も泥の沼に沈み、 また匍匐前身を繰り返し、這いずって這いずって、2時間も山中をさまよって来たのだ。

そして目にしたそのあまりにも小さな隧道。
周囲は完全に土砂と藪に覆われているが、かろうじて口をあけたその姿。
私はその場で、立ち尽くした。
究極の廃美を前にして、言葉も、身動きも、全てを忘れた。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 87 改めて谷根隧道の由来について書きとどめておこう。


周囲を山に囲まれた谷根集落から柏崎に出る際、およそ200メートルほどの峠を越えていく必要があった。
この峠は戊辰戦争の際、砲台が設置されたこともあるという由緒正しき峠である。
ただ、日常利用する住民にとっては、焼いた炭などの大荷物を抱えながらこれを越えるのは大変な苦労であり、隧道の建設計画が持ち上がった。 これが明治12年のことである。
当時の戸長であった新沢多三治氏を中心に早速着手されたが、技術面及び資金面の問題から工事は難航し、途中2度も中止され、村民の熱意も失われつつあった。
しかし、新沢氏や周辺集落の関係者らは初志貫徹を貫き、人夫4962人、石工1654人、総工費1875円9銭3厘をかけ、明治23年7月、延長160メートルの隧道が開通したのである。
新沢氏らは資金面における不足分を村人に負担させることなく、私財を投げ打って調達したといわれ、これがために家産が傾き、 一時村を離れて現地より遠く離れた碓氷で炭焼きで生計を立てるまで没落してしまったという。

完成後、県に請願して向こう10年の間、料金を徴収することが許可された。
米山登山道の中腹にあるという立地条件から登山者に多く利用され、トンネルのスリルで好評を得たといわれるが、 内部は激しく漏水して危険であったとも言われ、困惑するものも多かったらしい。
また、料金徴収をかねた茶屋が近くに置かれたこともあったと記録されている(東側、西側のどちらにあったのかは不明)。

このような隧道も、青海川駅に出る立派な道が開削されてからは村民の往来もなくなり、荒廃していった。
わずかに上記のような登山者と、東側の耕地(前回のレポート参照)で耕作していた人が利用するだけとなっていたが、 それらも昭和40年頃にはほとんどなくなり、やがて地図上からその姿を消した。

一方で、いくつか地元の方からお話を頂いたが、先に述べた先人達の偉業は今なお谷根の集落で永く語り継がれており、 隧道の存在そのものが村民から忘れられたわけではないことを強調したい。

(参考文献:谷根史誌)
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 88 さて、隧道について観察してみよう。

幅は人一人がやっと、高さも屈まなければ通れないほどに狭い坑口だ。
あまりにも小さなその姿から、熊の寝床にでもなっているのではないかと、近づくのをためらったほど。
また、全体が植物に包まれており、その姿を見せている部分はごく一部である。

特徴的なのは入口をふさぐように渡された横石。
隧道を封鎖するためのもの、あるいはその名残だろうか・・・?
ただ、坑口を密封したような様子は見受けられない。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 89 ポータル(?)はよく見ると石で組んだものを泥で固めてある。
かなり無理やり感があるが、これで100年以上ももっているのだから、脅威だ。

周辺はともかく、内部はどうなっているのか?通れるのか?
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 90 無念・・・

ここに、続く道はなかった。
入口から覗き込んだ先は、直径1メートルほどの空間があるのみで、人が通れるものではない。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 91 それでも内部侵入を試みようとすると、ふと天井に気配を感じた。

あらら、住人がいました。

今まで私が遭遇した蝙蝠はみな眠っていたのだが、こいつは起きていた。
で、入ろうとして入口の横石を越えた途端に彼は飛び出し、驚いた私は危うくひっくり返りそうになったのである。

ちなみに蝙蝠はもう一匹中におり、こいつは頑として出て行こうとしない。
おそらく無理やりに入れば、中は修羅場と化すであろう・・・

ここは身を引いた。まあ、入口から覗き込むだけでほとんど見えるから・・・(弱気)
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 92 正面の壁はどうも封鎖の跡のようには見えず、実際の坑道はここから下っていたように思える。
記録には「谷根側から行くと上り坂になっている(=東側からは下り坂)」という情報があり、 下手をするとここから階段状に下っていたのかもしれない。
ただ、ちょっと隧道の構造から考えると疑問符がつく施工であり、この点に関してはあいまいである。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 93 振り返って撮影。
ここに至るまで、ほとんど判別もつかないほど荒れまくった耕地跡以外に人工物は皆無であった。
そのようなところを2時間も歩いてたどり着いた遺構に、感慨もひとしお。

・・・もちろん帰りもあの藪の中を匍匐前身なのは忘れていない。
谷根隧道 古道の先に明治の隧道を見よ 94 貫通はならなかったものの、見事な遺構に満足しつつ帰還する。

その一方で、いくつかの課題も残された。
まず第一に、西側の坑口の存在。
そして第二に、上でも述べた東側坑口の施工である。
次の図を見ていただきたい。
これは隧道と思われる遺構の想像される断面図である。
石で組まれたポータルのようなものは、このように「かまくら」状であり、ポータルとしては妙だ。
また、坑口から一気に下っていったとすると、水の流入がひどいはずだ。

さらに、牛馬も通ったという確かな記録があるのだが、石組みの坑口は大人の人間が立っては入れないほど狭い。
牛や馬など、どうやっても入れないはずだ。
この石組みが後設の封鎖とすればつじつまがあうが、「かまくら」で封鎖というもおかしな話である。


このような疑問は今のところ解決できておらず、ひょっとしたら本物の谷根隧道東側坑口は別のところにあるのかもしれない。
西側坑口の存在も合わせ、藪の落ち着く頃に改めて調査する必要があるだろう。
廃道の先にあった遺構は見事なもの。
隧道として通り抜けることはかなわなかったとはいえ、藪中行軍の苦労も報われる逸品であった。
名残惜しさを振り払い、再び藪の中を2時間歩いて国道に戻る。
いくつか残された謎、これを解決することを決意しながら。
[ 06' 5/21、06' 5/27 訪問 ] [ 06' 7/14 作成 ]
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