間瀬銅山跡と明神沢立抗 1

概要

間瀬銅山跡と明神沢立抗の地図 目下のところ、私の興味をひきつけてやまない弥彦山。
今回もその弥彦山から"廃"分をお届けしよう。
獲物は───廃鉱だ。


間瀬銅山は海に面した旧岩室村間瀬地内より真川を溯り、弥彦山西山麓に広がっていた銅山である。
その始まりは江戸時代にまでさかのぼる。
古くより銅が出ること自体は間瀬住人に知られており、山師がたびたび訪れては、採掘の許可を願い出ていた。
一方で、山を生活の糧とする間瀬住人は採掘により山があらされることを懸念し、これを断ってきた。
元禄13年(西暦1700年)、山師は直接頼んでも埒が開かないと考えたのか、江戸の老中に採掘許可を申請。
この結果、この地を支配する領主に銅山開発の指示が下され、翌年より採掘が始まる。
このとき、一応「村には迷惑をかけない」と言って始めたそうだが、実際には大勢の人が押し寄せて風紀が乱れ、村民は大いに迷惑したという。

結局この採掘は上納金の問題、生産高の減少などで、わずか5年で終わってしまう。
その後も断続的に採掘が行われたり、時には銀山開発の話もあったらしいが、最初の採掘で大変に迷惑した村民にとって、鉱山は概ね敬遠されていた。

ただ、間瀬銅山から出る銅は生産量こそ多くなかったものの品質が良く、近隣の燕市における銅製品の原料として多用された。
燕市は現在では金属加工技術で世界的シェアを誇る職人の町であり、これは当時の間瀬銅山の銅加工技術とも無関係ではなかろう。

細々と続けられていた銅山開発は、明治の中ほどになって転機を迎える。
この頃、本格的な精錬所等が設けられ、また、地元住民も銅山に積極的に関わるようになり、村落の貴重な収入源としても機能し始めた。
大正の初めには銅山の最盛期に至り、新鉱脈の開発も相次ぎ、月産60トンを記録した。

しかしながら、これをピークにして徐々に採掘量は減少していった上、銅価値の下落、大正後期の不景気などで銅山経営は悪化、 大正9年2月13日に閉山となる。
その後、戦時中の鉱山開発奨励により昭和18年には経営者が変わって事業が再開されたが、開発は芳しくなく、終戦と同時にまたも山の火は消えた。


本格的な採掘が終了してから80年余り、残された遺構は数少ない。
だがしかし、私がそこへ足を運ぶ十分な理由があった。

1-1 林道の傍らに

間瀬銅山跡と明神沢立抗 1 新潟市中心部から海沿いに国道を南下して行くと、間瀬集落から一つトンネルを抜けたところに田ノ浦という集落がある。
集落というほどの戸数はないが、温泉が湧出し、食事処やリゾートホテルなどもぽつぽつと見られる、やや垢抜けたところだ。

ここで国道と別れ、強烈な上り坂を東南に進んで行くと、やがて林道開ノ木平線の起点にぶつかる。
看板によれば延長4500メートルで弥彦山スカイラインにつながっているらしいが、別の看板には「未開通」とあった。
実際のところは「一応繋がっているけど車じゃいけない」というのが真相で、スカイライン側の終点には林道終点の看板が存在するものの、 夏場には藪に覆われて自動車どころか自転車でも進めるかどうか怪しい状態になってしまうのだ。
全くの未通かと思えば、終点付近には藪に包まれたガードレールも存在しており、「廃」テンションにさせるには十分。

話が脱線したが、とにかくここが銅山集落へのアプローチになる。
間瀬銅山跡と明神沢立抗 2 フラットダートの快適な林道ツーリングを少し楽しむと、早速沿道に怪しい構造物が。
石とコンクリート、それに鉄骨で組み合わされた物体であるが、正体はわからない。
年代物なのは一目瞭然で、鉱山に関連した施設ものだろうが・・・
鉱山集落とそこに通じる道(現在の林道)は小さな川沿いにあるが、この川の下流、 海の近くにも同じようなものが遺されている。その二つは関連したものに違いない。
ゆえに、ズリなどを運ぶ索道を張った塔ではないかと思う。

塔からは川の方へと向かう小道があるが、その沿道にもかつての遺構がある。
間瀬銅山跡と明神沢立抗 3 石垣である。
藪に包まれ、半ば崩壊しかけたその姿であるが、確かにここに何かがあったことを伝えている。
建物の土台と思われるが、残念ながら石垣の上は天然の地面と同化しており、その上にあったはずの建造物についてのヒントは一切ない。
すぐ近くに索道と思われる塔があったことから、これに関連したものだろうか?

1-2 無駄骨

間瀬銅山跡と明神沢立抗 4 小道の先は小さな木橋で川を渡っているが、これは現代的なもので、登山用の橋だろう。
それでも沿道の遺構を求めて自転車で突入してみると・・・
間瀬銅山跡と明神沢立抗 5 嵌った・・・
小川の右岸を走る林道を対岸に見、無理やり左岸の道を探してみたが、どうもこの辺りには左岸の道は存在しなかったようだ。

調べてから行けよっていう話は無しでお願いします。

1-3 集落跡地

間瀬銅山跡と明神沢立抗 6 再び右岸の林道に戻り、さらに川を遡って道は登る。
よく締まった砂利道は実に走りやすいが、勾配は結構きつい。
また、まだ雪もあちこちに残る探索の時期にもかかわらず、登山なのか山菜取りなのか、かなりの自動車が行き交っていた。
上で述べたように、この先はどこかで行き止まりになっているはずである(少なくとも自動車レベルでは)。
山開きもまだのはずだが、彼らはどこを目指しているのだろうか?
間瀬銅山跡と明神沢立抗 7 ふもとの国道から分かれて、ほぼ直線的に700メートルほど走ってくると、周辺の景色に変化が現れた。
いままで左に直立する崖を、右に小川を見てきたが、割と開けた平地に出たのだ。
この辺りがかつて精錬所を含む銅山集落が栄えていた場所である。
その位置は江戸時代からほとんど変わっておらず、この地下に最大の鉱床があったといわれる。

おもむろに自転車を降り、周囲の探索を始める。
間瀬銅山跡と明神沢立抗 8 見回しても茫漠とした藪が広がるのみで、かつての建物などは全く残っていない。
その藪を掻き分けてみると、石造りの遺構があった。
きのこ形をしたそれは石灯籠のようにも見えるが、明かりを入れるようなところはない。
正体ははっきりしないものの、ここにかつて人の生活があったことを伝えるものだ。
このほかにも、コンクリートの足場やマンホールの跡らしきもの見られる。


林道と平場は川面から数メートルの高さにある。
ここから水面まで降り、下流のほうへ歩いてみた。

1-4 川面に広がる古代遺跡?

間瀬銅山跡と明神沢立抗 9 火焔型土器発見!!


・・・まあ不法投棄だろう。銅山集落でこんな巨大で無駄チックなものを使ったとは思えない。
ただ、林道からはかなり距離が離れており、どうやってこれを運んできたのか、謎だ。
上から転がしたにしては直立してるし、周囲は車が入ってこれないような場所である。
間瀬銅山跡と明神沢立抗 10 近くには不法投棄なのか当時のものなのか分からない、素焼きの土管や切り出された石が転がっている。
何か文字が刻まれていたような形跡もあるが、どれも読み取ることはできなかった。

間瀬は銅のほかに、間瀬石という石材でも有名である。
まさかこれに関連したものではないだろうな。
間瀬銅山跡と明神沢立抗 11 脇を流れる真川は、清流と呼ぶに相応しい。
蒼い水流は周囲の岩盤を削り取り、美しい渓流を作り出していた。
川底には鮮やかな青い岩盤が見られるが、これは銅床か、それともかつての精錬の痕跡なのか。
この清き水の流れも、近くに鉱山集落が栄えていた時代には、精錬所の鉱業廃水で毒水と化したこともあったのかもしれない。

さらに下流方向へ進むこともできそうだが、あまり行くと銅山集落からは離れてしまう。
上流へと引き返し、先ほどの平場へと戻った。

1-5 石は刻む昔日の記憶

間瀬銅山跡と明神沢立抗 12 平場の藪の中には、このような石垣がいくつも並んでいる。
その数は非常に多いものの、その上に建つものは何もない。
精錬所や選鉱場、宿舎などが立ち並んでいたことは確かなのだが、どれもすべて木造であったことは間違いない。
大正時代に閉山したということからも、コンクリートの遺構が残っていることはあるまい。
間瀬銅山跡と明神沢立抗 13 もうひとつ石垣。
道から外れ、山腹の藪を掻き分ければ、このような石垣はいくらでも見つかる。
ただし、夏場であれば本当に藪に覆われて何も見えないだろう。
間瀬銅山跡と明神沢立抗 14 ちょっと分かりにくいが、これは階段だ。
階段があるということは、その前後に道があったはずなのだが、植物に包まれていてその痕跡は認めがたい。

建物こそ残されていないものの、そこにある石垣の数は膨大である。
以前、何かのテレビ番組で「数万年後、残されている記録は壁画のみ」なんていうことを聞いたが、確かに石の保存性から見れば、その通りのような気がする。
銅山集落(「間瀬郷土史(昭和29年発行)」より)
石垣はほとんどが道の左側に見られた。
現在の林道がかつての集落のメインストリートと一致するならば、おそらく工夫達の長屋跡と思われる。
最盛期にはこの地に75戸、人口250人ほどが生活していたという。
その生活の跡も、遺された石垣と墓石にしかない。
間瀬銅山跡と明神沢立抗 15 石垣以外には、このような石造物も残されていた。
・・・どう見ても墓石だなこりゃ。
文字はなく、いつごろのものかは分からない。
形状からするとかなり古そうだ。

きっとこの墓は、銅山の栄枯盛衰を見てきたのだろう。
もう誰も訪れることもない墓石に向かい、手を合わせた。
間瀬銅山跡と明神沢立抗 16 墓石の近くにはもうひとつ、最初に見た石造物と同じ形をした石の遺構がある。
こちらには標柱が立てかけられており、「昭和四十九年九月吉日」とだけ読み取れた。
標柱の他の面にも何か文字が書かれているようだが、あいにくこれらの文字は読めない。

昭和49年といえば、もう銅山が閉じられてから50年以上を経過している。
その頃に何か祭事を行ったようだが、おそらくこれはシーサイドライン開通と関連したものと思われる。
海沿いに延びる国道405号のことだが、これの開通が昭和49年だ。
以前、この辺りには公園が整備されたこともあったといい、国道の開通→公園の整備→祭事といった流れだろう。
間瀬銅山跡と明神沢立抗 17 平場から林道を少し上流へ進むと、道は二手に分かれる。
左に分かれていくのが林道の続き、直進は登山道である。
もちろん、この登山道も銅山と関連したもので、脇の看板には「旧銅山道」と書かれている。
この先の遺構───縦坑を期待して、自転車ごと直進する。
山菜取りや登山のために、近くの林道に入ってくる人々の数はかなり多い。
そんな環境の中に、かつて人が暮らした遺構がひっそりと存在する・・・
ゾクゾクするようなシチュエーションではないか。
[ 06' 2/19、06' 4/1 訪問 ] [ 06' 5/26 作成 ]
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