間瀬銅山跡と明神沢立抗 2

概要

間瀬銅山跡と明神沢立抗の地図 間瀬銅山を過ぎ、道は林道と登山道の二手に分かれる。
「間瀬銅山」とひとくくりに言っているが、周辺には太刀川鉱山、鉢前銅山、赤滝銅山の3つがあった。
狭義の間瀬銅山とは今探索してきた銅山集落であり、もっと上流にあったのが太刀川鉱山である。
太刀川鉱山では、銅のほかにも亜鉛なんかを取っていたという。
登山道はこの太刀川鉱山へと続く。

2-1 沿道の遺構

間瀬銅山跡と明神沢立抗 18 入口の案内板には「旧銅山道」とあり、いまでは弥彦山山頂へ通じる登山道となって川の右岸を進んでいく。
道の真ん中は洗削が進み、自転車で進むにはスキルが必要だ。
そんな気の利いたものを持ち合わせていない私はしっかり押しで進む。

途中には不動明王像なんかもあったが、雨ざらしで100年近くを過ごしたにしてはくっきりと残っており、最近になって設置されたような気がする。
間瀬銅山跡と明神沢立抗 19
ほわっ
間瀬銅山跡と明神沢立抗 20 ななななんじゃこりゃ!?

ふと道の左の崖に続くわき道を見つけ、登山道から覗き込んでみると、なにやら穴ぼこがッ。
奥は階段状に切り取られた部分もあり、人口の穴であることは間違いない。
間瀬銅山跡と明神沢立抗 21 一瞬狸掘りの跡かと思ったが、奥行きはほとんどなく、二畳ほどの空間が直線的に彫りぬかれているだけだ。
奥にも一段高くなったところがあり、何かを置いていたような気配がするが・・・?
さっきの不動明王像だったり?

非常に狭い空間であるので、ここで銅を掘り出したということはないだろう。
何か、宗教的な空間のような気がする。

すでに入口から奥が見えていたため、中には入らなかった。
雨宿りくらいにはちょうどいいかもしれない。

2-2 太刀川銅山

間瀬銅山跡と明神沢立抗 22 もう洗削というか陥没の域ですなこりゃ。
登山道とはいえ、かつてこの先の鉱山から鉱石を運んだ道だけあって勾配は緩やか。
足元さえ整備してあれば、自動車でも余裕で入ってこれる。

が、今ではこのように深さ1メートルほどの谷が形成されてしまい、徒歩であっても転落すれば怪我をするだろう。
あまり「まっとうな」山登りってのは私はしないのだが、登山道って結構危ないもんだな・・・
間瀬銅山跡と明神沢立抗 23 林道の分岐から500メートルほどいくと、再びいくつかの石垣が現れ始めた。
この辺りが、太刀川鉱山の跡だろう。
規模としては間瀬銅山のほうがはるかに大きかったようで、石垣の数も多くない。

太刀川鉱山が最も栄えたのは明治の頃。
だが、大正時代の銅価値の下落に伴い、間瀬銅山が閉山する前の大正6年頃に採掘が中止された。
間瀬銅山と同様、戦時中に再び生産が開始されたが、年産わずかに5トン程度であり、終戦前の昭和19年10月頃に閉鎖されたという。
間瀬銅山跡と明神沢立抗 24 周囲に石垣がちらほら見え始めた頃、行く手は巨大な砂防ダムと倒木によって遮られる。
整備さえすれば車でも入ってこられるような今までの道とは違い、ここから先は完全に徒歩規格の道になる。

立抗というと、人や鉱石の運搬に使用する垂直の穴である。
人力や馬力に頼っていた明治・大正時代とはいえ、重い鉱石を担いで登山道を往復したとは考えにくい。
ゆえに、坑口は車道規格の道の沿道にあると思っており(目的地の明神沢立抗は"ある"ということしか知らず、場所が不明であった)、 これはちょっと妙なことだ。
この考えは半分当たっていて、後の調査によると、実際の坑道に繋がる坑口は銅山集落の近くにあったらしい。
この先の立抗は鉱石を運び出すというより、資材運搬などに使われたものと思われる。

いずれにせよ、正確な立抗の位置が不明である以上、先に道がある限り進まねばなるまい。
この日はすでに夕方近くなり、いまさら自転車を置いて登山というわけにもいかない。
ここより先は別の日に改めて探索した。

2-3 普通の山登り?

間瀬銅山跡と明神沢立抗 25 再訪はずいぶん遅れて4月1日。
この日は偶然にも弥彦山の山開きと重なり、林道も人でごった返していた。
この先の登山道へ入っていく人も多い。

で、そういう人の身なり格好を見てみると、結構本格的な装備に身を包んでいる。
弥彦山というと小学生でもハイキングで登る山という印象が強く、私の装備など帽子、軍手、ウィンドブレーカー、トレッキングシューズだ。
また、あわよくばこの先の登山道でも自転車を持ち込めないかとすら考えていた。

まあ、流石に自転車はここに置いていくことにして、倒木の右側の斜面に刻まれた登山道を上り始めた。
間瀬銅山跡と明神沢立抗 26 こういう斜面とか、廃道の崩落現場と大差ない気がするんですがね・・・

土砂崩れにより道幅30cmになった崖っぷちなんかで、「こえ〜」なんていってるが、実質的にはこのような登山道と大して変わらない。
管理されているかいないかの違いは大きいだろうが、転落・滑落の危険から言えばどちらも同じような気がする。
逆に言えば、登山のスキルというのは廃道歩きのスキルに通じるものがあるのかもしれない。
間瀬銅山跡と明神沢立抗 27 廃道よりあぶねーよ!

ここは足元に道がない
あるのは、岩に穿たれた杭を結ぶ鎖だけだ。
垂直になったこの場所を、体重のほとんどを怪しい鎖に預け、腕の力だけで向こうへ行かなければならないのだ。
足を置ける場所など、幅10cmもない。重心移動にミスれば、10メートル以上はある谷底へまっさかさまだ。
もしも旧・廃道でこんな光景に出会ったら、迷わず「撤収!」と叫ぶだろう・・・

登山ってのは、立ち入り禁止の廃道を歩くよりも危険だったのか?
間瀬銅山跡と明神沢立抗 28 ふもとにはカタクリなどの春の花が咲き誇っていたが、山頂近くではまだまだ雪が多い。
岩場や沢登りもあり、ちょっと装備に関しては「ナメていた」といわざるを得ない。反省。

登れども登れども、立抗が見えてこない。
私が探索時に知りえていた情報は、「登山道を歩けば誰でも目に付く」「1時間ほど登ったところ」の2点だけであった。
岩を乗り越え、沢を横切り、急斜面では手をつかねば進めないようなところもある。
想像以上に体力を使う登山、期待だけ膨らむもののいっこうに姿を見せない立抗、人工物が皆無で廃美に欠けるなど、 標高は上げてもモチベーションは下がっていく一方だ。

2-4 深遠なる闇を覗き込むとき

間瀬銅山跡と明神沢立抗 29 やっと見つけたかつての遺構。
といっても当時のものかどうかはよく分からないが、ドラム缶だ。写真ではちょっと分からないかもしれないが・・・
こんなところまで担いできて不法投棄するものもおるまい。

ドラム缶は沢の真ん中に転がっていた。
そして、その沢から上方へ目を向けると・・・
間瀬銅山跡と明神沢立抗 30
detaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa
間瀬銅山跡と明神沢立抗 31 ここここれは、鬼気迫るってやつですね〜。

自転車と分かれてから40分ほどの午後12時ちょうど、ついにそれは姿を現した。
濡れてヌメヌメと照らされた素掘りの表面がなんともいえない。
ゴツゴツした岩肌にくりぬかれた人造の穴が、江戸明治大正と続いた鉱山の歴史を語りかけてくる。

「これが廃鉱ってやつか・・・」

初めて見る廃鉱山、まして大正時代には捨てられてしまったヤマに、感慨も深い。
登山の苦労もいっぺんに吹き飛んだ。

位置関係からして、太刀川鉱山の坑道に繋がる立抗だろう。
太刀川鉱山の最盛期は明治時代であったから、この立抗もその頃かそれ以前に掘られたものと考えられる。
隧道ではないが、明治の穴ぼこである。


ではちょっと失礼して・・・
間瀬銅山跡と明神沢立抗 32 長さ数キロにも渡って、それも分岐と立体交差を繰り返して伸びる坑道には、流石に手を出すことはできない。
ほんの少し探索して引き返すつもりだった。

というか、入口から数メートルで行き止まりである。
いや、これを行き止まりといっていいのかどうか・・・
何しろ立抗なんだから、道は「縦」に続いている。
そう、写真右下の穴がそれなんだが・・・
間瀬銅山跡と明神沢立抗 33
オフゥゥゥウウゥゥゥゥ
(注:カメラは水平です)
間瀬銅山跡と明神沢立抗 34 "縦"だよ"縦"!

斜度は60度くらいあり、隧道内に存在する"崖"といって差し支えない。
岩を削っただけの崖は転がり落ちることはできても登ってくるのは無理だ。
もう進入するとかしないとかいう問題じゃない。
完全なる一方通行の隧道内断崖だ。
奥へ進むことはできても、そのレポートは文字通り死蔵することになるだろう・・・

でもせめて、上から穴を覗き込むくらいは・・・
間瀬銅山跡と明神沢立抗 35
アフウウゥゥゥウウウゥゥウウゥ
間瀬銅山跡と明神沢立抗 36 ふけぇ・・・

断崖の底は見えなかった。
ただただ、底知れぬ闇が、地底を目指して進むのみだった。
いったい深さ何メートルまで続いているのか、想像もできないほどの真闇である。

ここからさらに先へ進むのに必要なのは、「決死の覚悟」ではない。
「命」そのものである。
降りた先にも、蜂の巣の如き坑道が広がっているのだから・・・
間瀬銅山跡と明神沢立抗 37 探索時間わずかに5分。
後ろ髪を引かれる想いはあった。
あの暗闇の底から呼びかける声が、私には聞こえた。
それに取り込まれ、歩を進めた先に待つのは、極上の廃美、そして約束された命の終わりである。
最後に立抗位置を掲載しておこう。
私はふもとから登ってきたが、山頂のスカイラインから降りてくるほうが距離としては短い。
生あるものの限界を悟った私は、元来た道へと戻り、ヤマを降りた。
かつて山の火が消えたその日、多くの男達がそうしたように、何度もヤマを振り返りながら。
[ 06' 2/19、06' 4/1 訪問 ] [ 06' 6/2 作成 ]
前の記事へこれより先の記事はありません
ひろみず http://d-road.sytes.net/ webmaster@d-road.sytes.net
間瀬銅山跡と明神沢立抗12