持倉鉱山 遺跡への昇華 0

概要

持倉鉱山 遺跡への昇華の地図 新潟県の廃道の聖地が親不知であるならば、廃墟の聖地はどこであろう。
その答えを持ち合わせるものは多くないはずだし、こと親不知のような歴史的価値を伴いにくい廃墟というものにおいては、個人の好みでばらつくに違いない。

だが!!
今回紹介する持倉鉱山は、万人をしてこう言わしめるだろう。

「そこは廃墟ではない。欧州の、古代遺跡である」と。


持倉鉱山は旧三川村(現阿賀町)にあった鉱山である。
かつて、おもに蛍石(フローライト。フッ化カルシウム)を採掘していた。
ただし、蛍石の存在は昔から知られていたものの、本格的に採掘し始めたのは比較的最近(といっても戦時中)になってからで、 それまではどうやら銅を取っていたらしい。
大正時代の地形図には、「持倉銅山」の名前が見られる。

持倉鉱山の発見は江戸時代、享保年間(1716〜1736年)に遡るといわれる。
明治37年、蛍石の採掘中に偶然銅鉱脈が発見され、以来銅並びに金、銀、亜鉛などを採掘していた。
大正2年ころにはレンガ造りの精錬所や事務所などの施設が立ち並び、最盛期には200人以上の鉱夫たちとその家族が暮らし、学校などもあったという。
しかしながら、大正6年の686.4トンをピークに産出量は減少し、大正8年からは三井鉱山が管理するようになったものの、その翌年(大正9年)には休山となった。
大正9年といえば間瀬銅山が閉山した年でもある。
間瀬銅山の閉山理由のひとつに「銅価格の下落」も挙げられていたことから、持倉鉱山においてもその影響が少なからずあったものと推測される。

なお、持倉銅山を含む旧三川村の村域には他にも金、銀、銅を採掘した鉱山がいくつかあったが、ことごとくこの時代に閉山、休山となっているようだ(当時の地形図より)。
大正時代後期の金属価格の下落はどうやら中小鉱山にとって相当致命的なものだったことが伺える。

明治後期もしくは大正初期のレンガ造りの遺構を残したまま、時は流れて昭和17年。
やはり間瀬銅山と同様に、戦時中の鉱山開発奨励からか再び採掘が開始されることになる。
このときの採掘は銅ではなく、前述の蛍石がメインであったようだ。
昭和19年の全国の蛍石産出量が7967トンであったうち、持倉鉱山の産出量は実にその22%を占める1768トンであったというから(「新潟県鉱業の趨勢」新潟県経済部資源課、1952)、 その規模の大きさは計り知れないものがある。
戦後もしばらく鉱山としての使命は続き、昭和28年ころには100人ほどの従業員が暮らしていたが、時代の流れか、昭和38年に閉山となり、長きに亘った山の宿命は潰えた。


閉山となっても大正時代の遺構は川のほとりにそのまま残され、レンガ造りのそれはまさに大正浪漫を感じさせるもの。
ときに国内廃墟の最高峰、「軍艦島」と並列して扱われることすらもある逸品だというから、これは行かないわけにはいくまい。
また、砂防ダム建設のため、川沿いに車道も延びていた。
しかしながら、その砂防ダム建設のために撤去またはそれが遠因となって崩壊した物件や道路も少なくないとされる。
そのため、今やそこに自動車で近づく術はないらしい。

ならば行こうじゃないか。
自転車で。


(持倉鉱山の緒言については、許可を得てミックンのつぶやきを参考にさせていただきました。
なお、諸般の事情を鑑み、今回は具体的な場所の公開を控えております。あしからずご了承ください。)

0-1 オフシーズン

暖冬とはいえ、2月の朝六時に家を出れば、それなりに寒い。
否、"それなり"どころではない。
路傍の温度計は摂氏0度を示し、二枚重ねの靴下も寒気を切り裂いて走る自転車には焼け石に水、いやこの場合は逆だな。
つま先の感覚はとうに無い。

とにかく止まると寒いので、ろくすぽ休憩もできずに走り続けた。まさに自転車操業である。
あまりにも寒いときは、コンビニで立ち読みして暖をとる始末だ。
持倉鉱山 遺跡への昇華 1 三川村某所にて。
この怪しげな道が、現在持倉鉱山に続く唯一の道である。
この先いくつかの橋を以って左岸に右岸にと進む場所を変えながら、上流を目指している。

イントロで述べたとおり、持倉鉱山までの道はすでに自動車では通れない。
その原因は「橋が落ちている」とのことだが、いったいどこまでいけるのかはわからない。
自分は自転車だとはいえ、気温0度のなかで寒中水泳というのは正直御免こうむりたいのが本音だ。
とにかくいけるところまで自転車で進もう。
持倉鉱山 遺跡への昇華 2 いきなり挫折かよ!!

愕然とした。
砂利道を進むことわずか100メートルほどで、早くも橋脚の基礎部分と橋台を残し、橋は消えていた。
手持ちの地図には、迂回路はない。
ちょっと早くね?
持倉鉱山 遺跡への昇華 3 川は入っていけないほどではないが、濡れることは避けられない。
繰り返すが、今日の気温は0度である。
それでずぶぬれになって、果たして自転車で帰れるだろうか?
家にたどり着く前に、氷漬けになっていやしないか?


そんなこんなで「覚悟」を決められずに周辺をうろうろしていると、対岸に動くものが見えた。
おいおい、自動車が走っているではないかっ!!
持倉鉱山 遺跡への昇華 4 "ぬか驚き"で肝を冷やしたが、木陰に見えた自動車が亡霊か何かでない限り、向こうへ渡る手段があるようだ。
周辺を探索していると、巨大なコンクリート製の遺物があった。
高さは6メートルくらいで、幅は10メートル以上はある。
中に入るような類のものではないが、こりゃいったいなんだろう。
巨大なコンクリート製ということで、大正時代の持倉鉱山に関連したものではなく、昭和中期のものと思われる。
持倉鉱山 遺跡への昇華 5 この遺構のすぐそばに橋があり、難なく対岸に渡ることができた。
橋は平成4年竣工の農道の橋である。
おそらく、この橋の竣工に伴い、旧橋が落とされたのだろう。

0-2 自転車の強み

持倉鉱山 遺跡への昇華 6 どうやら川をさかのぼる道は林道として整備されているらしい。
延長は1kmとあるが、明らかに鉱山跡までは足りない・・・
持倉鉱山 遺跡への昇華 7 しばらく行くと、また右岸に戻る。
橋は先ほどの農道の橋とは趣が異なり、古そうだ。
独特の欄干といい、ほころびたコンクリートといい、昭和中期のものだろう。
下流にあった落とされた橋も、このような格好をしていたに違いない。

地図上では、道はこのまま右岸を進んで鉱山に達している。
案外濡れずに行けるような気がしてきた。
持倉鉱山 遺跡への昇華 8 右岸に戻ってから約800メートル、自動車でいけるのはここまで、か。
この先も砂防ダムが存在し、かつてはもっと上流までも行けたというが、路盤が深さ2メートルほど崩落してしまい、 徒歩かそれに準ずるものでなければこの先には進めない。
もちろん、自転車の私にはこの程度は何の障害にもならない。
持倉鉱山 遺跡への昇華 9 担いで登ってれっつらごー

(写真は崩落地点を越えたあと、振り返って撮影。後ろに写るおじさん達には鉱山跡についていろいろ教えていただきました)

0-3 救いの手、たぶん。

持倉鉱山 遺跡への昇華 10 かつて車道であったその道は川に深く抉られる箇所もあり、狭い。
ただ、先ほどおじさん達がいたように、ある程度の人の往来はあるらしく、足元の道は非常に鮮明である。
藪もそれほどひどくなく、まだ乗車したまま進める。
持倉鉱山 遺跡への昇華 11 この先も2、3箇所の崩落地点を越えていく。
崩落地点は大概沢になっており、多少は濡れながら進むことになる。
樹氷のように凍りついた枝もまた風流かな。
ともすれば私がこうなる可能性も無きにしも非ず。
持倉鉱山 遺跡への昇華 12 寒いとはいえ、今年の記録的な暖冬により、このような日陰を除いて沿道に雪はほとんどない。
だからこそ、雪崩の心配もなく歩けるわけで、今日という日に探索を決定したのである。

ただし、およそ90年前の大正3年の同じ2月、持倉鉱山を雪崩が襲い、建物一棟が倒壊、6名の死者が出ている。
それに比べて、今年の冬はよほど特殊と見える。
その分、旅は順調―――
持倉鉱山 遺跡への昇華 13 だった。

今までの崩落はすべて川の本流に合流する沢付近で起こっていたため、水量もなく、濡れも多少ですんだ。
が、ここの路盤は本流によって深く抉られ、かつてあったはずの車道は完全に消えてしまった。
本来の車道は川の右岸に沿ってここを左にカーブしていたと思われるが、まるっきり痕跡はない。
そこにはかつて法面であったであろう斜面があるのみで、肝心の道のほうは川に根こそぎ持っていかれてしまった。
持倉鉱山 遺跡への昇華 14 失意のうちに行き止まりから上流方向を見ると・・・なんかある!!!
まだ距離がある上、木々が邪魔してはっきりとは見えない。
しかし、その強烈な存在感は肌に伝わってきた。
あそここそが、目指す持倉鉱山だ。

道はこの写真の左側の斜面にへばりついていたはずなんだが、ご覧のとおりそんなものはどこにもない。
なので、目的地に達するには、
1.渡渉して一度左岸に渡り、再び渡渉して右岸に戻る。
2.このまま右岸の斜面に張り付いて進む。
の二つに一つ。
1ができれば自転車ごと進めるのだが、少なくとも膝までは確実に濡れる。
濡れるだけですめばいいが、あいにく靴はただのトレッキングシューズであり、川床を歩くには多大なる不安を感じる。
川の水量は少なくなく、また流れは速い。
2で進むべき斜面はかなり急であり、万が一滑落すれば、高さで死ぬことはなくとも、淵に落ちて1以上に全身ずぶぬれ、デジカメもGPSもご臨終。
さらに、うまくいこうがいくまいが自転車とはお別れだ。
だが、新潟の廃墟の聖地、持倉鉱山は救いの手を用意していた!
佐渡の戸中隧道といい、聖地と呼ばれし最高の場所には、必ず救いの手が差し伸べられるのである!!
持倉鉱山 遺跡への昇華 15 「よっしゃあ〜!倒木わたれば濡れずにすむぞ〜!!」

って行けるかこんなの!!!!
上流に見え隠れする、鉱山廃墟。
捜し求めたそれを前にして、いまさらサヨウナラなんてできない。
ついに決断のとき、試練のとき、か?
[ 07' 2/25、07' 3/3 訪問 ] [ 07' 3/24 作成 ]
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