弥彦山付近 猿ヶ馬場の廃墟 2

概要

レンガ造りの可能性すら現れた謎の廃墟。
果たしてその正体とは・・・?

2-1 廃屋の正体

弥彦山付近 猿ヶ馬場の廃墟 24 階段を上りきると、ほぼ正面に小さな部屋が見える。
まずはその内部から見てみよう。
弥彦山付近 猿ヶ馬場の廃墟 25 四畳半ほどの小さな部屋は、入るとすぐに一段高くなっていた。
段上の床は木製だが、めちゃめちゃに腐り果てており、薄い板切れではとても私の体重を支えられないように思えた。 そのため、残念ながらこの部屋の奥へと侵入することはあきらめた。

だが、部屋の入口から見える壁面に興味深い落書きを見つけた。
弥彦山付近 猿ヶ馬場の廃墟 26 白い壁に石のようなもので傷をつけて書かれたそれには「1966」との文字が見える。
これが西暦とすれば、少なくとも昭和40年頃にはこの建物は放棄されていたことを示す。
この建物の現役最後の日に、ここの利用者が別れを惜しんで刻んだ可能性もなくはないが、 施錠が失われて部外者が容易に侵入できるようになるには相当な年月が必要であるから、実際に閉鎖された時期はもっと以前かもしれない。

導入の回でレポートしたように、この建物への車道は存在しないし、地形的に車道の建設は無理だろう。 これだけの建物の資材をすべて人力で運んだとは思えず、かつては道が通じていたはずだ。
それが今では失われてしまったのは、これもおそらく弥彦山スカイラインの取り付け工事により、本来の道が削られてしまったものと考えられる。
スカイラインは昭和42年に着工されており、この時点ですでに廃墟であったことは間違いない。


なにぶん中に入ることができなかったため、この部屋の探索は十分には行えなかったが、部屋の小ささと床が一段高くなっている状況から見て、 おそらくここは休憩室、もしくは仮眠室であったと推測される。
高くなった木製の床には畳が敷かれていたのではなかろうか。
弥彦山付近 猿ヶ馬場の廃墟 27 小部屋から出て、奥を望む。

一階とは異なり、木材が多用されていた二階の内部はひどく荒廃している。
天井は抜け落ち、板で仕切られていたであろう左右の壁も跡形もない。
床にはその成れの果てである木々や剥がれ落ちた壁が散乱し、足の置き所にも注意を要する。


だが、荒廃しきったその中に、探し求めた答えがあった。
写真でも右に写る配電盤のような四角い金属の箱。それを隠すように剥離した壁材が微妙なバランスでぶらぶらと垂れ下がり、 それをのけて内部を見るのはちょっと怖かったが・・・
弥彦山付近 猿ヶ馬場の廃墟 28
これだっ!
弥彦山付近 猿ヶ馬場の廃墟 29 「弥彦無線中継所」

錆びきった箱には、確かにそう書かれていた!
これを見つけたときの私の喜びようといったら、自分が足元も危うい廃墟の中にいることも忘れ、飛び上がらんばかりの興奮であった。
最初にこの廃墟を目にしてから、すでに1年は経過している。
それから何度となくここを見上げ、たどり着く道がないかと周囲を怪しくうろついたこともあった。
夏場は完全に藪に埋もれる斜面を春先になってようやく突破し、ついにその正体が無線中継所であったことを暴いたのだ。
知的好奇心が満たされるその瞬間は、まさにヒトにしかありえない快楽の一瞬である。


弥彦の文字の上にさらに文字が見えるが、これは判別できなかった。
というか、このような字は見たことがない。「歯」、あるいはその旧字体に近いような気もするが、それらともまた微妙に違う。
ともあれ、無線中継所という事実だけは揺るぎようもない。

2-2 もうひとつの正体はその先に

この建物の正体は壁に取り付けられた無線中継所の文字から明らかになった。 正体は分かっても、まだ奥には部屋が続く。この先を見ていこう。
弥彦山付近 猿ヶ馬場の廃墟 30 外観から想像していたように、二階は一階よりも広い。そしてその大部分を占めるのが、この大部屋だ。
床には一階の部屋と同じように、長方形に区切られた区画の隙間を深い溝が走っている。
区画の大きさといい、溝の深さおよび長さといい、一階と似たような構造ではあるが、その規模は明らかにこちらのほうが大きい。
往時はたくさんの機材が並んでいたことと想像される。

部屋の奥から、さらにどこかへ通じているようだ。
膝丈くらいの深さはある溝の上をぴょんぴょんと飛び跳ね、接近する。
弥彦山付近 猿ヶ馬場の廃墟 31 謎の入口付近から振り返って撮影。

今ではガランとした大部屋がひとつだけのように見えるが、中央の柱付近には壁の痕跡があり、左右にひとつずつ小さな部屋があったようだ。
しかし、特に向かって左の部屋の内部は瓦礫が床を覆い尽くしており、進入は難しい。
まあ、小さな部屋であり、危険を冒してまで瓦礫の上を歩き回る必要もあるまい。
弥彦山付近 猿ヶ馬場の廃墟 32 狭い入口の先は数段低くなっており、短い階段で繋がっている。
また、この先は明らかに鉄筋コンクリート製で、建物本体とは異質な印象を受ける。増築されたものと考えていいだろう。

奥は薄暗い部屋になっているようだ。右は外へ通じている。
まず奥の部屋へと向かった。
弥彦山付近 猿ヶ馬場の廃墟 33 部屋は明り取りくらいにしかならない小さな窓が天井付近にぽつぽつとある程度で、ほとんど壁一面が窓であった母屋とは印象を異にする。

壁にはまたもや配電盤のような不思議な機材が取り付けられ、そこから金属のパイプが伸びている。
いったいその中に何を通したのだろうか。水道管?ガス管?ほの暗いその部屋に答えは見つからなかった。
弥彦山付近 猿ヶ馬場の廃墟 34 そしてこの部屋で印象的だったのが、この椅子だ。小学校にあるような、木製の小さな椅子。
四角い区画の中心に置かれた椅子と、周りの奇妙な設備から、私にはまるで電気椅子のように見えた。
物らしい物はすべて失われ、建物だけが残ったようなこの廃墟の中で、この椅子だけが取り残されたとは思えないが?


だが実は、本当に注目すべきはこの椅子の頭上、天井に取り付けられた巨大なフックであったことは、帰宅後に知ったのだった。
そのフックこそが、この廃墟を心霊スポットにしてしまった元凶である。

弥彦無線中継所跡。またの名を、「自殺電波塔」。

その名が示すとおり、その手のサイトで紹介される伝説というのが、ここのフックで首を吊ったものがおり、今でも自殺の名所だということだ。
なるほど、そうとあれば、ご親切にもここに椅子が置いてある理由が分かった。

だが、幸か不幸か、探索時点にはそのような情報を持ち合わせておらず、天井のフックを見ても別段不思議に思わなかったため、あいにく写真はない。
無論、背筋が寒くなっただとか、幽霊を見ただとかいうこともない。
心霊スポットなど、予備知識がなければ心霊スポット足り得ないということだ。
弥彦山付近 猿ヶ馬場の廃墟 35 私が興味を持ったのは天井のフックなどではなく、足元にあった。

これは落書き以外には文字情報に乏しいこの廃墟で、先ほどの無線中継所の他に見つけられた唯一の文字だ。
1メートルほどの板には「五城目木材株式」と焼印が押されてある。
ネットでこれを検索すると、この会社は林業を基幹産業とする秋田県五城目町にあり、1834年頃創業という非常に長い歴史を持つ木材会社であった。
ウェブサイトはないようだが、現在でも営業しているらしい。

板切れには会社名を示す文字のほかに、「長六〇尺」、「二十枚入」とあり、この板切れがもとは板材を入れた箱の一部であったことを示す。
この板切れがいったいいつごろからここにあるのか、明確にそれを示す情報はないが、 「尺」という単位は昭和33年の計量法の制定により商取引での使用が禁じられている。
このため、少なくとも昭和33年以前のものであると断定できる。
弥彦山付近 猿ヶ馬場の廃墟 36 この部屋の窓はこのような小さなものが2、3ある程度で、風が吹きぬける開放的な母屋から入ってくると、 部屋に入ったとたんに閉鎖的で窮屈な印象を与えてしまうのは事実だ。

このような構造上の異質さと、それに伴う薄暗さ、そして「吊ろうと思えばできてしまう」という要因が重なり、 他のサイトで紹介されるような怪談話が生じたのだろう。
もちろん、「ここで自殺したものはいなかった」と証明することは、俗に言う「悪魔の証明(ないことを証明する)」であり、不可能なことだ。
椅子が置いてある事実がある以上、そういう事件があった可能性のほうが高いかもしれない。

だがしかし、少なくとも、私が新潟に来てからもう6年以上になるが、ここで自殺者が出たという話は聞かないし、 いちいちどこでどうやって自殺したかなんて報道されることは、まずありえない。
そのわりに「自殺の名所」等といわれてしまうのは、あまりにもこの建物が不憫ではないか。
多分、いや確実に、中央線のほうが自殺の名所だ。
二階平面図。
建物の表と裏を巡れば、表と裏の顔が見えてきた。
私は、表の顔を信じたい。

部屋を後にし、先ほど見た出口から陽光あふれる外へと出た。
[ 05' 4/16 訪問 ] [ 05' 11/2 作成 ]
前の記事へ次の記事へ
ひろみず http://d-road.sytes.net/ webmaster@d-road.sytes.net
弥彦山付近 猿ヶ馬場の廃墟0123